「反貧困 ──『すべり台社会』からの脱出」

アパートを借りる際の連帯保証人になったり生活保護申請に同行するなど
ホームレスの自立支援活動をしている
NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局長の湯浅誠氏の著書
反貧困 ── 「すべり台」社会からの脱出」。

著者は90年代以降の日本の社会でいかに貧困問題が深刻化しているかを
雇用・社会保険・公的扶助という3層のネットワークの喪失と、
それによって個々人が受ける5重の排除によって解説し、
(教育課程・企業福祉・家族福祉・公的福祉・自分自身からの排除)

スタートから親の貧困を引き継いでいたり、一度何かの弾みで正規雇用のルートから外れると、
本人の努力ではどうにもならないまま一気に底辺まで落ちていく人たちの姿と
彼らを食い物にする企業、貧困問題に見て見ぬフリで目をつぶり続ける政府によって
日本が急速にそうした「すべり台社会」となっている現実を丹念に描き出す。

貯金・財産はもちろんその他、資質や能力や家族や人脈や環境や
生きていくうえでその人が利用・活用しうるあらゆる資源と
それが持たせてくれる余裕とか力のことを
著者は“溜め”と呼んでいる。

セーフティネットから漏れたり、様々な排除を受けて追い詰められていくと
もともと“溜め”の少ない人はそれを使い果たし、肉体的にも精神的にも疲弊して
ネガティブに自己閉塞していく負のスパイラルに入る。
これが「自分自身からの排除」。

いったんそういう状態に陥ってしまった人がそこから抜け出るためには
まず最低限の生活環境を整える支援がなければ、がんばることすらできなくなっているというのに、
貧困問題ではこの「自分自身からの排除」が見落とされて、

多くの人が問題の実像や本質に無関心なまま
「自己責任」という言葉で彼らを切り捨てて済ませている。

「自己責任」という言葉は、人による“溜め”の違いを全く無視し、
「頑張れるためにも条件(溜め)がある」という事実を認識せず、
自分自身からの排除の恐ろしさを理解しない。

このような過酷で余裕の無い「すべり台社会」は
社会そのものが“溜め”を失い、活力を失って痩せ細っている証拠なのだと著者は警告している。


なぜ貧困が「あってはならない」のか。それは貧困状態にある人たちが「保護に値する」かわいそうで、立派な人たちだからではない。……立派でもなく、かわいくもない人たちは「保護に値しない」のなら、それはもう人権ではない。生を値踏みすべきではない。貧困が「あってはならない」のは、それが社会自身の弱体化の証だからに他ならない。……そのような社会では、人間が人間らしく再生産されていかないからである。

誰かに自己責任を押し付け、それで何かの答えが出たような気分になるのは、もうやめよう。お金がない、財源がないなどという言い訳を真に受けるのは、もうやめよう。そんなことよりも、人間が人間らしく再生産される社会を目指すほうが、はるかに重要である。


読みながら、ずっと感じ続けていたのは、
これはワーキング・プアの問題だけじゃない、
障害児・者の切捨ても、終末期医療や介護の問題も
みんな同じだ、繋がっているのだ……ということ。