「米国では」を印籠に代理出産解禁を説く学者
5月22日の朝日新聞の「私の視点」欄を読んで、混乱した。
しかし、
米国では多様な立場を尊重して規制内容も州ごとに多様なのだとか
米国で代理出産契約を禁じる州は3つしかないことから
日本の発想がいかに極端なものかがわかるとか
ニューヨーク州ではこうこうで、日本との差が大きいとか、
出産女性を母とするルールも「米国各州で支持を失った古い考え方である」とか
米国では単身者でも代理出産を依頼できる州まであるのだから、
非婚化が進んでいる日本でも考えるべきだ、とか
米国で代理出産契約を禁じる州は3つしかないことから
日本の発想がいかに極端なものかがわかるとか
ニューヨーク州ではこうこうで、日本との差が大きいとか、
出産女性を母とするルールも「米国各州で支持を失った古い考え方である」とか
米国では単身者でも代理出産を依頼できる州まであるのだから、
非婚化が進んでいる日本でも考えるべきだ、とか
明らかに、これは単なる「比較」ではなくて、
米国を世界のスタンダードとして据えて、日本は遅れていると主張するトーン。
米国を世界のスタンダードとして据えて、日本は遅れていると主張するトーン。
米国の生命倫理といえば「過剰にリベラル」で、
日本の多くの“専門家”や“研究者”の間でアメリカはむしろ
「生命倫理や背景のバイオ利権の横暴が懸念される国」の代名詞となっているものだとばかり
私は思い込んでいたので、
日本の多くの“専門家”や“研究者”の間でアメリカはむしろ
「生命倫理や背景のバイオ利権の横暴が懸念される国」の代名詞となっているものだとばかり
私は思い込んでいたので、
そういうアメリカの生命倫理の方向性という大きな絵の中に代理母の法規制状況を位置づけることをせず
米国の代理母規制の現状だけをスタンダードとして日本の制度を論じるというのは
(日米の文化の差を考慮の外において比較すること以前に)いくらなんでも暴挙なのでは……?
米国の代理母規制の現状だけをスタンダードとして日本の制度を論じるというのは
(日米の文化の差を考慮の外において比較すること以前に)いくらなんでも暴挙なのでは……?
……と、つい考えてしまったのだけれども、
……ものすごく混乱してしまう。
それにしても、この人はいずれ
「アメリカには無益な治療を停止する権限を法律で病院に認めている州がある」とか
「アメリカには医師による自殺幇助を合法化している州がある」とかも
同じような口調で言うつもりのかなぁ……
「アメリカには無益な治療を停止する権限を法律で病院に認めている州がある」とか
「アメリカには医師による自殺幇助を合法化している州がある」とかも
同じような口調で言うつもりのかなぁ……
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その頃ちょうどWashington Postの代理出産関連記事にもやもやして
5月の初めからプリントアウトをずっと机の上においては時々眺めていたところだったので、
その記事の関連部分を読み比べてみたら、この教授とのトーンの違いが面白かった。
5月の初めからプリントアウトをずっと机の上においては時々眺めていたところだったので、
その記事の関連部分を読み比べてみたら、この教授とのトーンの違いが面白かった。
またヴァージニアの州法(94年)では
・ 代理母は結婚していること、結婚している夫婦の遺伝上の子どもであることが必要。
・ エージェンシーは代理母をリクルートしてはならない。
・ 赤ん坊の売買を避けるために、代理母が受け取れるのは補助的な生活費のみ。
・ 遺伝上の母親はDNA検査の結果を届けて、子どもの出産後に自分の名前を入れた出生証明書を発行してもらうことができる。
・ 代理母は結婚していること、結婚している夫婦の遺伝上の子どもであることが必要。
・ エージェンシーは代理母をリクルートしてはならない。
・ 赤ん坊の売買を避けるために、代理母が受け取れるのは補助的な生活費のみ。
・ 遺伝上の母親はDNA検査の結果を届けて、子どもの出産後に自分の名前を入れた出生証明書を発行してもらうことができる。
モノは言いよう……ということでしょうか?