「医者が介護の邪魔をする!」に思うこと

「医者が介護の邪魔をする!」(矢嶋嶺 講談社)というタイトルを見て「その通り!」と手を打つ一方で、
扇情的なタイトルの本はだいたい内容が薄いのが通り相場のようにも思えて、
あまり期待せずに読んでみたら、

書いてあることはタイトルのように威勢がいいわけではなく、むしろ、
患者さん個々の暮らしと向き合いながら地道に地域医療を実践してきた信州の医師が
「無理せず力まず、ほどほどで自然に老いて死ぬのがベスト」という考えを基調に、
そうした老いと死を地域で支えるには……という問題を丁寧に考え語るもの。

また、弱い者の側に立つ屋台骨が一本しっかりと通っているのにも敬服。

このたび始まった後期高齢者医療制度
老人を地域で支える仕組みを本気で作ろうとするものなのであれば、
テキストとして地域のお医者さんたちに読んでもらいたいような……。

トランスヒューマニストさんたちにも、
できれば一読してもらいたい本だと思ったのは、
「努力しても永遠に健康でいられるわけはない」と、著者が医療に幻想を抱く愚かさを指摘し、
「老いを受容し、寝たきりも肯定する健康観もいま必要だ」と説いているから。

「寝たきりも肯定する健康観」とは、
予防の不可能な老化現象に「生活習慣病」という名前をつけて病気にしてしまって
医療によって予防や治療ができるかのような幻想を追うのではなく、
老いも障害も生きていることの一部として受け入れようということでしょう。

……「尊厳死」などとことさらに言うのは、私は好きではない。苦痛をある程度和らげてもらい、意識がいつの間にか薄れ、あの世に行く。偉い人も、貧乏人も、天皇でも立派な科学者でも、哲学者でも、死は平等である。痛みも不安も、皆同じである。それが良いのだ。
 死の評価は、他人が見て「あのように死にたくない、こう死にたい」と評価することであって、死につつある本人はあずかり知らぬことだ。残った家族や診ていた医者などの価値観が、自分勝手によい死に方かどうか評価する。死に掛けている人はこれら価値観の異なる人の介護を受けて死んでゆくわけだから、いろいろな死に方を強要される。だが、死に方まで強要されるのは真っ平である。その前の段階で「健康長寿」などの理想の健康を押し付ける大衆追随派のマスコミドクターも同様に真っ平だ。(p.87-88)

ここで主張されていることは、死に方に限らず、
認知症や寝たきり状態や植物状態に関して
「あんなになるくらいなら死んだ方がましだ」と考える他者の視点が、
検証されることもないまま本人の視点に横滑りさせられて、命の質がランク付けされ、
命の質が低いと決め付けられた人の治療を中止する口実に使われつつある
英米での動きにも当てはまるのではないでしょうか。

尊厳死」については著者はユニークな指摘をしており、
かつて国家権力のための死が「尊厳ある死」として祭り上げられたことがあったし、
今は家族が年金を掠め取る目的の「延命」や金儲けのための「医療」がまかり通って、
もともと死に瀕した際の志の高さを指していたはずの尊厳ある死が今や変質している。
医師は反省し、もう一度医療のあり方を考え直すべきだ、と。

政府の作る「在宅ケアブーム」についても、
老人医療費亡国論による欺瞞に過ぎないと鋭く指摘。

「老人は自宅に帰って主婦やボランティアに面倒を見てもらえ」が政府のホンネだが、
そんなボランティアは充分に育っていないし、本腰を入れて育てるつもりもない。
ボランティアではどうにもならない状態というものもある。
行政はすぐに「地域で支える」とか「ボランティアを」というのが、
そんなのは偽善に過ぎない、と。

一方、本当の意味で尊厳ある老いと死のためには在宅ケアが望ましいのも事実。
そのためには医療がしっかり介護の下支えを担わなければならない。
この辺りが著者の最も大きな主張でしょう。

実際、この本を読んでいて最も感銘を受けるのは、
老人患者の往診に行くたびに著者が
介護する人・される人の間の緊張関係や
介護を担っている嫁の疲労度や息子夫婦の関係にまで目配りをする細やかさ。

(介護者を追い詰めるのが介護負担そのものであるよりも
むしろ周辺的な人間関係の縺れなどからくる精神的ストレスであることを
著者はちゃんと見抜いています。)

長年の介護の後に亡くなった老人の死亡確認に行く著者は、
その場に集まっている大勢の親戚の前で
がんばって介護してきた嫁の立場を立ててやるために
言葉を探し、声を張るのです。

(これは確かに、医師の権威があって初めて担える役割かもしれません。)

こうした配慮は介護負担の過酷さと、その負担が家族を崩壊させる様を
いくつも見てきた経験から身につけられたものでしょう。

このような介護の過酷な現実を見てきた著者は、
老人を在宅で支えることが最善であるにしても
現実にはそれがかなわない家族が沢山あることも知っていて、

理想的なのは老親がケアつきアパートでプロの介護を受けて暮らし、
近くに住む息子夫婦が頻繁に顔を見せに通うことだ、と。

さらに施設と在宅支援の連携を密にし、介護サービスの底上げを訴えると同時に、
老親とケアを担う子ども世代の両者に対して、概ね以下のような提言をしています。

・ 子どもが親を介護して当たり前という考えに縛られず、施設入所の(老人は)覚悟と(息子夫婦は)決断を。そうして、むしろ家族の心の交流を大切に。

・ 介護で女性を家に縛り付けるのは、もはや現実的ではなく男性のノスタルジーに過ぎない。介護はきちんと社会化して、女性は外で仕事を持って働くほうが社会も近代化するし、老人を大切にすることができる。

場合によっては
施設介護のほうが老人本人が愛されて暮らすことができるという真実も
著者は見抜いています。


本当は、みんなとっくに知っていることなのではないでしょうか。

家庭で1人の家族だけが主として担う介護には限界があることも、
限界が来てしまった時には、家族介護が施設介護以上に
介護する人だけでなく介護される人にとっても、はるかに残酷なものとなることも。

介護を直接知らない人たちと
ソロバン勘定を仕事にしている人だけが
まだ「美しい家族介護」、「温かい家族介護」という幻想を見たがっている。