医療職の無知が障害者を殺す?

カナダのコラムニスト Helen Henderson がまた良いものを書いてくれました。

障害者らが如何に病院を危険な場所だと感じているか、
一般病院の医師が如何に障害について無知であるか、という話。

「ケアを装う無知」。

Ignorance masquerades as care
By Helen Henderson
The Toronto Star, April 19, 2008


例えば、仕事を持ち自立生活を送っている、ある筋ジスの女性。
出勤前の飲み物を誤嚥して病院に運ばれ、すぐに呼吸は回復したのですが、
様子を見るために入院することに。

大変だったのはそれからで、
また誤嚥してはいけないからといって経管栄養にしようとする医療スタッフと、
食事の摂り方を始め障害との折り合いのつけ方は身に着けていると主張する女性は
6日間の入院の間ずっと闘い続けて
それでも食べ物は一切出してもらえなかった、と。

障害者が病院に入院すると
医療職が障害について無知であるばかりでなく、
患者の自己選択を尊重するという意識も持っていない。

結果として医療職の障害についての無知とネグレクトで
障害者らは病院で殺されたり死ぬほどの目に遭っている。

Queen’s 大とToronto大の研究者らによる調査では、
多くの医学生が将来、知的障害のある患者を想定しており、
医学教育に知的障害者についての学習が必要だと考えている。

……などとして、
医学教育にもっと障害者ケアを盛り込め、と訴えています。

まったく同感。

           ―――――――

もう10年近く前のことですが、
重症児の娘が腸ねん転の緊急手術を受けて総合病院の外科に入院した際、
「外科スタッフが重症児医療に疎いことによって、この子は命を落とすことになるのでは?」と
私も危機感を抱いたことがあります。

例えば、以下のような点。

てんかん発作の知識がないので、外科医は目の前で発作が起きていても気がつかない。

・ 外科病棟の看護師も発作が分からないことは同じ。夜中に発作が続いてひどくなる一方なので「このままでは重積状態になる」と小児科ドクターに連絡してもらっても、情報を中継する看護師に知識がないので、話がまともに伝わらない。必死の思いで訴えているのに「要求度の高い親」、「うるさい親」という受け止めしかしない。

・ 医師にも看護師にも重症児の細い血管に点滴を入れる技術がない。小児科に助けを求める謙虚さもない。かといって「重症児だから何が起こるか分からない」との保身ばかりが先走って、中心静脈からラインを取ることは躊躇し続ける。その間、患者の脱水の可能性には目をつぶったまま。(そもそも中心ラインを確保せずに手術を行ったことが考えられない。)

・ 手術翌日から痛み止めを処方しない。ベッドサイドにきても、本人なりに必死に痛みを訴えている声や目の表情が、彼らには聞こえないし、見えない。家族や、日ごろ本人をケアしている医療者までが「相当に痛がっている」と訴えているのに、一切取り合わなかったのは「どうせ重症児だから」という意識としか思えない。

・ 口と鼻の呼吸が充分に分離していない重症児の呼吸特性が分かっていないので、嘔吐が起こる可能性が高いのに酸素マスクで鼻と口を覆ってしまう。窒息の危険性を訴えても、親の言うことは素人の言うことだとバカにして取り合わない。

・ 点滴も入れられない、口からも食べられないのに、またお腹の傷は開いて化膿しており、水分の補給も栄養状態の改善も急がれる事態なのに、こちらから頼むまで経管栄養の決断ができない。

・ やっと経管栄養にしてくれたと思えば、健常児よりも身体も胃も小さいことへの配慮もなく、いきなり普通分量を通常の速度で注入して全部吐かせてしまう。当人にとって初めての経管栄養だというのに、まず重症児に詳しい小児科医に相談する配慮もない。

・ 「こういう呼吸になるとこの子は熱を出す」と親が訴えているのに、医師は「大げさだ」と相手にしない。この会話の半日後に38度の発熱。手術の傷口が開いて化膿している状態で風邪を引いて咳き込むのが本人にはどんなに苦しいか。体力が弱っているところに高熱がどれほどのダメージになるか。


きっと重症児が思わぬ転機をたどる、医師としては不本意なケースを
いくつも経験してこられたのだろうと拝察はしましたが、
「何が起こるか分かったものじゃない厄介なケース」という偏見と
「だからなるべく手を出さず、なるべく余分なことはしたくない」というホンネが
医師には一貫して感じられました。

そのため結果的には
繊細にすべきところで無神経、大胆にすべきところで臆病……という医療判断が行われ、
それら要点をはずした判断はことごとく
本来なら無用のはずの苦痛となって患者本人の負担に追加されていきました。

親にとって一番辛かったのは、
ただ言葉がない子だというだけで、
言葉で表現できる患者さんであれば当たり前のように配慮してもらえる痛みや苦痛に
まったく意識すら向けてもらえなかったこと。

Hendersonの記事にあった筋ジスの女性のように、
私も娘の入院中は細かいことの一つ一つを巡ってスタッフと闘い続けるしかなく、
それによって途中からは冷たい視線や意地の悪い言葉を浴びるようになりました。

ただ、看護師さんたちの対応は
本人が元気になり指差しや音声で自分の言いたいことを主張し始めると、
みるみる変わっていきました。

枕元のCDを「かけて」とか「替えて」など、
音声と指差しや顔の表情による要求を通じて
娘が自分の力でスタッフとのコミュニケーションを獲得していきました。

最初は親にしか質問を向けず、娘には直接声を掛けてくれなかった人たちが
退院前には娘とちゃんと会話してくれるまでになり、
「ミュウちゃんは楽しい子だねぇ」といってくれる人まで。

が、外科医らの姿勢は最後まで変わらず、
ベッドサイドに来た際に娘に声をかける人はいなかったし、
見るのはお腹の傷だけ。顔の表情になど目も向けないままでした。

20センチもお腹を切られて痛み止めも処方してもらえず、
点滴が入らないまま脱水が案じられる一方で、
延々と続くけいれん発作に、どんなに頼んでも対応してもらえなかった、あの夜中──。

私はどこにも娘を助けてくれる人が得られない無力感に打ちのめされて
「このままだと重症児のことを何も知らない医師・看護師になぶり殺しにされる」と思い詰めたし、

正直、あの夜は
「もう、この子を連れて病院を抜け出して親子でどこかで死ぬしかないのか……」
という思いまで頭をよぎりました。

Helen Hendersonがコラムで書いた、
専門医でなければ障害については無知で、
だから障害者は病院をむしろ危険な場所だと考えている、
医療職の無知と意識の低さに殺されるほどの目に遭っているというのは、
決して大げさではなく、まぎれもない事実です。

Hendersonが主張するように
医学教育の見直しが必要だと私も思います。

けれど、それ以前に、

せめて専門以外の医師には
自分たちが障害については決して詳しくないことを自覚してほしい。

そうして本当に患者のための医療を行うためには
診療科間や病院間にある垣根を越えて、
その人の障害について知っている医師に助言を求めてほしい。

あの垣根は医療者のプライドのためにだけ高々とそびえて、
患者の利益にはなっていないのだから。

そして、医療職の人たちは
日々の生活の中で試行錯誤を重ねながら「自分だけの障害」と長年つきあってきた本人や家族にして
初めて持つことのできる「経験知」というものに、
もっと敬意を払ってほしい。


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