介護を語るのは難しい

ある高名なジャーナリストが癌になった妻の介護について語る講演を
聴く機会がありました。

とても印象的だったのは、
彼が「介護は楽しかった」と何度も繰り返すこと。

老いと共に身体を触れ合うことなどなくなっていた夫婦が
自分も裸になって妻の不自由な身体を
もつれ合うように抱きかかえて風呂場に連れて行き、
身体の隅々まで洗ってやる行為は、
それだけで気持ちの通う老後の愛の行為だったと。

だから自分にとって介護は楽しかった、
妻の介護ができて幸せだったと。

「ああ、確かに介護にはそういう面がある」と思いながら聴きました。

健常な子どもが成長すると親と子が身体を触れ合うことなどなくなりますが、
子どもに重い障害があると、親と子はいつまでも身体を触れ合って暮らしていきます。

そして、
愛する誰かに全身を委ねること、
愛する誰かに全身を委ねられることの中には
言葉を超えた豊かな交情があるというのは親子であっても同じだと
私自身も日ごろからそう実感しているのは事実。

もちろん、
それだけではない厳しい現実が他に沢山あることに
こういう美談の“お約束”としてとりあえず目をつぶれば、
そういう1面は確かにあるよね、と聞ける……ということであり、

そういう一面があるからといって、
だから「介護は楽しかった」とまで言ってしまうのは
見ないフリ、なかったフリをし過ぎるよね……という気もしないわけじゃなかった。

講演後、会場から真っ先に出た質問は、
「美しい夫婦愛の物語を聞かせてもらったが
 介護の中で限界を感じたことは本当になかったのか。
自分はたった4ヶ月母親を介護しただけで
どんどん追い詰められていった。
あなたは、そういう限界を感じたことはなかったのか」

非礼にならないように抑制しつつ、そこには、ちょっと挑戦的なトーンも。

介護に追い詰められたことのある人、
その時に自分の中の人間としての弱さ醜さと直面せざるを得なかった人は、
そのことから自分自身が深い傷を受ける。

だからこそ、この人はジャーナリストが語る介護の美しさの一面性を
黙って見逃すことができないのだなぁ、と思うと
私にはどこかすがすがしくすら感じられる質問でした。

それに対するジャーナリストの答えは、かなりお粗末で、
「介護の限界ですか? それは、
私は所詮本人ではないから、
本人の気持ちは理解しきれないという限界を感じましたけどね。
それ以外の限界というのは、なかったなぁ」
あくまでも上から人にモノを語ってやろうとする傲慢だった。

手伝いに入ってくれる(もしかしたら主に介護を担っていたかもしれない)娘が2人いて、
それまでと変わらぬ仕事を続けながら妻を“介護”し、
妻の末期にすら取材で2度も海外へ出かけることが可能だった彼の「介護」と、

おそらく主たる(もしかしたら唯一の)介護者として
肉体的にも精神的にもボロボロになって
これ以上頑張れない極限状態でも助けを求める先すらなく
途方にくれたり絶望したりという事態の繰り返しの中で
徐々に追い詰められていったのだろう質問者がいう「介護」とは

同じ「介護」という言葉で表現されるには
その体験はあまりにも違う。

でも、その一方で、
時を置いて振り返ったら質問した女性の介護体験もきっと
限界を感じる苦しい時間一色でベタ塗りされていたわけではなく、
ジャーナリストが語ったような豊かさも
折々にはちりばめられていたのではないかなぁ……とも思う。

介護体験を語るというのは、とても難しい。

介護には、状況やそれを強いられる密度と長さによっては、
介護する側が心を病んでも不思議はないほどに過酷な現実もあれば、
介護し介護される関係性の中でしか結ぶことのできない人との関わりや繋がりと、
そこにしか見つけることのできない種類の濃密な関係性というものもあって
その両方が常に混然としているのが本当のところではないかと思うのです。

それなのに、なぜか自分の介護を言葉で語ろうとすると、
ポジかネガのどちらかだけでしか語れなくなるところがある。

一方だけを語ったのではウソにしかならないし、
どちらかだけを語ったのでは一面の真実にしかならない。もどかしい。

その両方がどちらも混然とあることを上手く言葉にするというのは
ほとんど至難の業なのかもしれない。
(それをほぼ成し遂げている小説作品はいくつか読んだことがあるのですが。)

そういえば、10数年前に友人がいったことがあった。

「障害のある子どもを持って大変ですね」と言われると、
「いいえ、そんなこと、ありません」と言いたくなる。
でも、
「障害があっても普通の子育てと違わないでしょう」と言われると、
「いいえ、大変なんです」と言わずにいられない。

──介護を巡る思いは複雑すぎて、簡単には言葉にならない。

【追記】
これを書いて、ふっと考えた。

自分の介護体験を語ろうとするとポジとネガのどちらかしか語れなくなるのは
もしかしたら介護を巡る2つの相反する感情の間で
自分自身が引き裂かれているからなんだろうか……?