Thomas Beatieのテレビ出演に思うこと

昨夜、Guardianで
世界で初めて妊娠した男性 Thomas Beatie がテレビに出たとの記事を読み、

YouTubeでOprahと話をしている彼のビデオを見て、
前のエントリーを書き、

ずっと彼のことが頭に浮かび続けているうちに
今日になってふっと思ったのですが、

この人はもしかしたら、
ただ「わかってもらいたい」だけなのかも……、と。

「普通」から外れていることに苦しんできた自分が
「普通でなくてもいい」ということと「普通の願いをかなえたい」ということの間で
答えを探しながら生きているんだということを、

それが苦しいことであると同時に自己肯定の試みでもあるだけに、
ずっと自分の「普通でなさ」を受け入れてくれなかった周囲に
ただ「わかって欲しい」……んだろうか。

そんなふうに感じたのは、
彼がOprahの質問に緊張しながらも誠実に答えようとしていた姿に
あまり余分なものを感じなかった気がするからなのか、

自分からテレビに出てわざわざ脚光を浴びたいとか
特にゲイの人権がどうのこうのと講釈を垂れたいタイプでもなく、
他の人にも自分と同じことができる可能性を説きたいわけでもなさそうで
むしろ戸惑っているようにすら見えた。

「ゲイとかトランスセクシャルの人はどこかの時点で
自分の性別に違和感を感じるようになったというけど
あなたはどうだったの?」

「やっぱり女の子に惹かれたの? 女の子と付き合いたかった?」

などの質問にもOprahの期待通りの答えは出てこなくて、むしろ
かなり遅くまで自分の性に違和感を感じなかったような話だったのと、

5歳の時に母親が自殺して、
それ以後は父親が母親役割と父親役割の両方を担って育ててくれた
と話していたのが印象に残ったのですが、

この人が自分が妻に代わって妊娠した姿をゲイの雑誌に公表したのは、
例えば大きな病気と必死で闘っている人が「自分だけの闘病記」を書かずにはいられないのと
実は同じなんだろうか?


            ―――――――

性別を意識していないと敢えて主張しなければならないのは
誰よりも性別を意識しているということでもあるという堂々巡りが、
性別によって傷ついたり苦しんできた人の自己肯定作業の宿命なのかも知れないのだけれど、

(「障害」は「個性」だと声高に主張しないといられないことにも
 私はこれと同じ宿命的な堂々巡りを感じるのですが)

「一度男であることを選んだ」のだから性別を意識していないわけではないし、

でも、その「男であることを選んだ」という事実から
「女でもない男でもない人として我が子を持ちたいから
性別とは関係なしに妊娠している今の自分」までには、
ちょっと距離というか飛躍がありますね。

性転換手術をするときに、具体的な方法までは考えていなかったけど
将来子どもを産むことも想定して生殖機能は残した……という話が
その距離と飛躍を埋めるのかなぁ。

実は何も大して深く考えてなかったりしてね。