「倫理問題」は「政治的正しさ」に言い替え?(豪)

昨年11月のオーストラリアの政権交代労働党の新政権でイノベーション相となったKim Carr氏が
科学研究の予算を削ってきた過去10年の施策を批判し、
威勢のいい気炎を吐いています。

New deal for science, end to ‘cultural wars’
The Canberra Times, March 20, 2008

組織的な詳細や
彼の発言を巡って野党側から出ている批判などについて興味がおありの方には
上記記事を直接当たってもらうとして、

Carr氏が言っていることは基本的には
「これまで政治的な正しさによって萎縮させられて
モノを言う気力すらなくしてしまった科学者に
もっと堂々と意見を言わせよう。
科学者が活躍できる環境を取り戻そう」
ということのように思われるのですが、

そのために彼は科学を個々人の身近なものにしようと語り、
科学者には自分たちを働かせてくれるコミュニティに奉仕する“義務”があると
科学者らに呼びかけます。
その奉仕の義務をどのように果たせといっているかというと、

人々をもっと金持ちに、もっと健康に、もっと頭がよく、もっと安全にすることによって
コミュニティへの奉仕ができる。

我々のこの傷つきやすい惑星を救う道を見つけることによって、できる。

人々の人生を美と希望と感嘆で満たすことによって、できる。

地球を救うのはともかくとして、
なんだか、
「とりあえず大衆の目先の欲望に応えてやれ。
そうすれば科学の力を見せ付けて社会から信頼を勝ち取り、
これまでみたいに政治的正しさに遠慮しなくても
思う存分好きなように研究できるんだぞ」
と檄を飛ばしているように聞こえるし、

この文脈でよくよく考えてみると、
彼が言う「政治的正しさ」とは「先進科学における倫理問題」のことではないでしょうか。

例えば長く議論されていた
ES細胞研究におけるヒト胚の破壊という倫理問題においても
科学者の側からは「倫理問題がうるさくて自由な研究が出来ない」という声も
起こっていたわけですが、

そうした状況に誰かが仮にCarr氏のように
「倫理問題」→「政治的な正しさ」という言い替えを導入したとすれば

それは
あらゆる倫理的な配慮を欺瞞だと切り捨てる一言にもなっていたはず。

政治的な正しさ──。
どうも胡散臭い言辞です。