Navarro事件で検察が移植医の有罪を主張

臓器欲しくて障害者の死、早める?というエントリーで紹介した
カリフォルニアのRuben Navarro事件(2006年冬)で、
昨日予備審理が始まり、
検察側が移植医の有罪を主張した模様です。


Ruben Navarroさんは重症の障害がある25歳の男性。
ケアホームで心臓麻痺のために呼吸停止状態で発見され、
病院へ救急搬送されたのですが、
Roozrokh医師はモルヒネとアチバンを過剰に投与。
さらに
通常は移植に備えて臓器を消毒するために患者の死後に投与するベタダインの投与まで早々と命じるなど
明らかに患者の救命よりも早く臓器を摘出することを優先させた行為で
Navarroさんの死を早めた疑い。


2001年の報告書にある事例では
同じくカリフォルニアで
救急搬送された患者をオンコールの医師が
「どうせ知的障害があるのだから
 死んだって誰も悲しまない」
と診察に来ることすら拒否し、
患者が死んだというケースも。

(詳細は知的障害者だからと助けなかった医師のエントリーに。)


世の中にじわじわと「どうせ障害者だから」という声が
低く、しかし着実に広がっているように思えてなりません。


Ashley事件の背後から聞こえてくるのも
「どうせ重症児」
「どうせ何も分からない」
「どうせ無用の臓器」
という声に他なりません。

しかし「どうせ障害者だから」、「どうせ本人には必要ないのだから」と一旦言い始めたら、
この「どうせ」はどこまででも対象を広げていくでしょう。

だからこそ、
「どうせ障害児・者だから」という感覚には
くれぐれも警戒しておかなければ、と思うのです。