Henderson記事に思うこと

Helen HendersonのAshley記事について触れたついでに、
その中で紹介されている興味深い論点について。

私が気に入っているのは
サウス・カロライナの市民権(civil rights平等権?)弁護士の指摘。

親に決定権があるべきです。が、問題はどこにリミットを設けるべきかという点。

Ashleyの両親は難しい決断ではなかったと言っていますが、難しい決断でなければならないはずでしょう。問題はこんな処置をちゃんと実施していけるプロトコルを作れるほど我々は賢いかということです。

(成人した障害者の移動の問題がこれで解決するという主張について)両親は想像力というものを欠いているか、あるいは次の段階を恐れているかのどちらかのように私には見えます。


それからAlberta大学の医療倫理センター所長のDick Sobseyという人も
面白いことを言っていて、

身体が小さい方が本人と家族の利益だという理屈が通るならば、極端な場合、
既に障害のある子どもに物乞いをさせるためには
さらに脚も切り落としてしまった方がもっと同情が集まってお金になり、
本人のためにも家族のためにも利益になる
という理屈だって地球上のどこかの国ではありえるかもしれない、と。

が、去年読んだ時に真っ直ぐ心に飛び込んできたのは、
実はこの後に続くSobseyの言葉のほう。

しかし、既に障害のある人は失うものが少ないのだという論理は成り立たない。
わずかな金であっても、貧しい人から盗めば、それは全てを奪うことになるのだ。



この言葉に心を突かれるのは、
重症重複障害児の親である私にとって
障害そのものが「奪っていくもの」とイメージされているからかもしれません。

(あ、今年無事に成人式を迎えたのですが、
いろいろ複雑・奇怪な事情があって
日本には法律上、重症重複障害しかいないことになっており、
重症重複障害者という言葉を見聞きする機会がないものだから、
ついついそう表記してしまう……)

障害は私にとって、我が子から「奪っていく者」です。
少しでも取り返してやれるものなら、
これ以上奪われることを少しでも防げるものならと願うから
子どもが小さな時期に親は一生懸命になって
リハビリや療育に精を出すのではないかと思うのです。
それでも子どもの成長と共に
障害は容赦なくさらに多くを奪っていきます。

けいれん発作がひどくなった時に医師から
「ひどくなったと言ってもね、
この程度のけいれんは重いうちに入らないんだよ。
もっとひどい子どもは沢山いるんだから」
と言われたことがあります。

医師にとっては「この程度」であったとしても、
親にとっては、
これまで我が子からこんなに多くを奪ってきた障害が
さらにまだ奪っていこうとしている事実が、
程度と関わりなく
他の子どもさんとの比較とも関わりなく、
それだけが、それだけとして、やるせないのです。

これまでに奪われてきたものの大きさを思うからでしょうか。
こんなに奪っていったのに、まだ足りないのか。
まだ持っていこうというのか……と。

すでに多くを奪われた子どもたちだからこそ、
せめて人の手によってさらに奪うようなことは……。

というのは理屈ではなく、
むしろ、内なる生理の声。