バブリーな医療・スローな医療

あまり論理的な考えとはいえないのですが、
ずうっと前から漠然と考えているのは、

医学・医療の中には
「バブリーな医学・医療」と「スローな医学・医療」とがあるのではないか、と。

「治す医学」と「支える医学」と言い替えてもいいのかも知れず。

もちろんバブリーな医学・医療の典型は、
再生医学遺伝子治療などの最先端医学でしょうか。
果敢に不可能に挑戦する「攻めの医学」。
また「死は敗北」と捉えてきた「治す医療」。

スローな医療の典型は……なんだろう???
僻地医療。
在宅で寝たきりのお年寄りを支える地域医療。
ホスピスもそうかもしれない。
障害児・者の医療もそうでしょう。
治しようのないものを見捨てることなく、
病や障害と付き合いながら如何に生きるかを「支える医療」。
死を敗北と捉えず、その人らしい死に方に「寄り添う医療」。

例えばアルツハイマー病の医学・医療でも、
治療法を求めて地道な研究を続ける先端医学もあるだろうし、
現に今苦しんでいる目の前のアルツハイマー病の患者さんを支えるために、
医療になにができるかを現場で試行錯誤しながら模索する医療もあるとすれば、

アルツハイマー病の治療法も見つかって欲しいけれど、
今現在もアルツハイマー病にかかっている人はいるし、
これからもいなくなりはしないことを思えば、
告知されたばかりの初期から終末期に至るまで、
いつ、どのようなケアが望ましいかというノウハウも
忘れずに研究して欲しいと思うわけで、

そういうことを考えると、
往々にしてバブリーな医療のほうが権威が大きくて
スローな医療よりも上位にあるものとされがちなのは、
本当にそれでいいのか、ということ。

そして、

医療倫理、生命倫理という学問は、
バブリーな医療の論理とだけ繋がっていて、
スローな医療の論理とは連絡が切れているのではないかと思えること。

今の社会の空気に滲んでいる要請とは
バブリーな医療への支出は問題視しないけど、
(コストで考えたらこちらの方がよほど大きそうなのに)
スローな医療は無駄な支出だから切り捨てたい
ということなのではないか、と思えること(注)。

しかし、

「限られた医療資源の分配」という問題は
バブリーな分野の視点からだけでなく、
スローな分野の視点からも考えてみるべきではないのかということ。




(注)
Ramez Naamは「超人類へ!」の中で、
人間がみんな元気になり不老長寿になれば、
莫大な医療費が節約できると主張していますが、
(そして、それはNaamだけの主張でもないですが)

彼は節約できる「スローな医療」費だけを問題としているのであって、

みんなが不老長寿になるべく新興テクノロジーが駆使されるわけだから、
そのための「バブリーな医療」費こそ莫大なものに嵩むのでは……?

【追記】
でも、バブリーな医療は莫大な医療費を使わせて、それが膨大な富を生むのですよね。
スローな医療はお金を生まないけど。
だからこそ前者はバブリーな医療なわけで……?