生命倫理学者とは

恥をさらすようですが、
なにしろ無知なので、

生命倫理学者というのは、
「急速に進歩・発展する科学の暴走に歯止めをかけ、
人の命や尊厳がおろそかにされないための仕組みを
検討・考案してくれる人たち」
のことなのだと、

つまり「命を守るための倫理学を研究する人」なのだと、

取り立てて深く考えることなどしないままに、
漠然とイメージしていました。

ところが、Ashley事件から興味と注意を引かれるままに、
ちょこちょこ読み聞きしてみると、

どうも、そうではない……?

むしろ、例えば
「弱者にはもうお金も手間も無駄遣いしたくない」という社会のホンネを
「限られた社会資源の公平な分配」というフレーズに置き換えるワザに
象徴されるように、

強者の論理による命や弱者の切り捨てを
もっともらしく合理化する屁理屈をでっちあげることが
生命倫理学者の生業だったのかもしれない……。
と、

つまり、生命倫理学者とは、
「命の切り捨てを合理化する理論武装を担う人」のことだったのか、
と思えてきたりもして、

だから、その段でいけば医療倫理学者とは、
「限られた医療資源をいかに公平に分配するか」という問題提起によって
「君たちには、もう医療費を使わせない」と決める相手を選定し、
それをもっともらしく合理化して批判を封じる作業を
担っている人たちなのかも知れず……。

もちろん、そういう学者ばかりではなく、
命を守る倫理学をやっておられる方も沢山おられるのでしょうが、

しかし、命の切捨てを合理化するナントカ倫理学者が沢山いるということは、当然ながら
そういう要請が社会の側にあるということなのでもあり、

(そして、もちろん、
 そこには新興技術の発展がもたらす膨大な利権を巡って
 しのぎを削る人たちがいるということでもあり)

それこそがコワイ事実なのではないかと思う。

Ashley事件でも、
メディアには多くの生命倫理学者が登場しましたが、

その中にも当然のことながら、
社会の強者らの“御用学者”みたいな生命倫理学者もいたわけで、

そういうことを考えるにつけ、
Ashley事件については、

「重症障害児の体に過激な医療で手を加えることの是非」
の問題として捉えるだけではなく、

むしろ、このように強者の論理が弱者を切り捨てていこうとしている
世の中の大きなうねりの中に位置づけた上で、考えなければならないのではないか……と。