生命倫理学者とは
恥をさらすようですが、
なにしろ無知なので、
なにしろ無知なので、
つまり「命を守るための倫理学を研究する人」なのだと、
取り立てて深く考えることなどしないままに、
漠然とイメージしていました。
漠然とイメージしていました。
ところが、Ashley事件から興味と注意を引かれるままに、
ちょこちょこ読み聞きしてみると、
ちょこちょこ読み聞きしてみると、
どうも、そうではない……?
むしろ、例えば
「弱者にはもうお金も手間も無駄遣いしたくない」という社会のホンネを
「限られた社会資源の公平な分配」というフレーズに置き換えるワザに
象徴されるように、
「弱者にはもうお金も手間も無駄遣いしたくない」という社会のホンネを
「限られた社会資源の公平な分配」というフレーズに置き換えるワザに
象徴されるように、
だから、その段でいけば医療倫理学者とは、
「限られた医療資源をいかに公平に分配するか」という問題提起によって
「君たちには、もう医療費を使わせない」と決める相手を選定し、
それをもっともらしく合理化して批判を封じる作業を
担っている人たちなのかも知れず……。
「限られた医療資源をいかに公平に分配するか」という問題提起によって
「君たちには、もう医療費を使わせない」と決める相手を選定し、
それをもっともらしく合理化して批判を封じる作業を
担っている人たちなのかも知れず……。
(そして、もちろん、
そこには新興技術の発展がもたらす膨大な利権を巡って
しのぎを削る人たちがいるということでもあり)
そこには新興技術の発展がもたらす膨大な利権を巡って
しのぎを削る人たちがいるということでもあり)
それこそがコワイ事実なのではないかと思う。
そういうことを考えるにつけ、
Ashley事件については、
Ashley事件については、
「重症障害児の体に過激な医療で手を加えることの是非」
の問題として捉えるだけではなく、
の問題として捉えるだけではなく、
むしろ、このように強者の論理が弱者を切り捨てていこうとしている
世の中の大きなうねりの中に位置づけた上で、考えなければならないのではないか……と。
世の中の大きなうねりの中に位置づけた上で、考えなければならないのではないか……と。