持ち味と芸、そして「かけがえのなさ」

トランスヒューマニストたちの言うことの中から、
彼らの人間観というものに目を向けると、
あまりにも索漠とした感じがするのですが、

そのパサパサ・冷え冷えした感じの中から立ち上がってくる感想が2つあって、
まず、その1つは、

彼らの人間観の中には「かけがえのない」という言葉はありえないのだろうか……?

彼らはどうやら、人間をその人の持っている「能力の総和」と捉えて、
しかも独立してばらばらに存在している個体単位でしか考えないために、

彼らが人間を語るとき、
その人間はいずれも取替え可能な、
つまり「かけがえのある」存在のように感じられてしまう。

トランスヒューマニストたちの人間観から抜け落ちているのは、
人は他者との関係性の中に生きているという視点、

そのことゆえに人は、一人ひとりが「かけがえのない存在」になるのだ、
という視点なのでは?


もう1つの感想は、

そういう人間観には、「持ち味」とか「芸」というものも、ありえないよなぁ……。

昔の学生時代をちょっと振り返って、
「頭さえよければ教師は優れた授業・講義ができるのか」ということを考えてみたら、
決してそうとは言い切れないし、

そこにはやはり、その先生ならではの味というものがあったりして、
同じ内容で講義をしても、「あの先生だからこそ面白い」という受け止めの中には、
頭のよさ以外の、ほとんど理屈では説明不能で「持ち味」としか呼びようのないものがあった。

音楽でも美術でも文学でも芸能でも、
その人にしかない「芸」にかけがえのなさを見出すから、
特定の人のファンになるのであって、

誰が書いていたのだったか、もう忘れたけれど、
作家が円熟してくると、文章に”照り”とか”艶”が出てくる、と。

そんなふうに、その人が生きてきた長い年月の良いことも悪いことも含めた年輪の中から
滲み出て結晶した、えもいわれぬコクみたいなものこそが
ものを創る人の「芸」であり、人を魅了する作品の命でもあって、

でもそれは、とうてい科学的に説明もできなければ、数値で測れるようなものでもないし。

そして、

人が生きるということは、その人なりの人生や”人となり”を創っていくことでもあり、

だからこそ、人にはそれぞれ、その人にしかない「かけがえのない持ち味」があって
それなりの痛みや苦しみをかいくぐってきた人の人生や人となりには
独特の照りや艶、コクや厚みが感じられたりもするし。

だからこそ、人にも人生にも面白みや味わいがあるのであって、


そういうのを抜きにして、
頭のいい人間ばっかりになれば社会は豊かになるって言われても、

それは、ならないと思うよ。