サルのクローン胚に考えること


という、タイトル通りのニュースが15日に。

Washington Postには、この件を巡って以下の2本。



これまで失敗が多く、霊長類のクローニングの可否には疑問視もあったが、
この技術が人間の再生医療に応用されたら、拒絶反応の心配のない臓器ができる。
というのが、拍手でこのニュースを歓迎する見方。

その一方で指摘されるのは、
胚を作って壊すというプロセスを巡る倫理上の問題と、
アメリカのES細胞研究助成を巡る政治的な状況(議会でまた議論が再燃するだろうと。)

さらに、
人間への応用研究の過程で莫大な数の卵子が必要となることから、技術上の困難点と、
卵子採取のために女性が搾取の対象となる懸念。

カリフォルニア再生医学研究所のAlan Trounson所長が
「幹細胞を創ろうという試みは人間や人間以外の霊長類のクローンを作ろうというものではありません。
私はそういうクローニングには断固として反対です」
と語っているのは、

行間を正しく読めば、

新興技術への偏見に満ちた人間がすぐに騒ぐように
別に人間のクローンを創ろうというんじゃないんだから、
治療的クローニングについては冷静に受けとめて、受け入れろ、
とのメッセージなのでしょう。

            ―――――

「新興技術への偏見に満ちた人間」のことをトランスヒューマニストたちは
産業革命に際して技術の導入に反対した時代遅れの人間たちと同じだとの侮蔑をこめて
ラッダイトと呼ぶのですが、

私も含めて、彼らの言う「ラッダイト」たちが懸念しているのは、きっと
人間のクローンが創られることよりも、
もっとはるかに手前の現在すでに、

生命が操作可能なものになっていて
生命を操作するために、さらに生命や人体が道具に使われていること。

それが命の選別を推し進め、

さらにそれが、他の社会経済の動きと表面的には見えにくい形で絡まりあって、
今の社会にいろんな差別がじわじわと広がりつつあるように思われること。



こうしたテクノロジーの進展に科学者たちは
「難病を治せる可能性のある大きな光明」だと明るく将来を展望し、

「将来はみんながもっと健康に、もっと頭がよくなって、もっと長生きする」と、
トランスヒューマニストたちは他愛なく夢想するのですが、

仮に本当にそれが実現した時には、
彼らのいう“みんな”の中に仲間入りして、
自分の幹細胞を使った再生臓器で治療してもらえる側にいるためには、
一定の“資格”を満たした人間であることを求められる──。
そういう世界なのでは?

「障害者なんて、どうせ社会の負担になるだけ」と平然と言い放つ人は、
無意識のうちに自分を“みんな”の側においているのだろうなと、
私には感じられるのですが、

一度よ~く考えてみた方がよくはありませんか。

本当に、そうなのかどうか。