クリスティ・ブラウンとKatieは違うと言い切れるか

その後、Katieの母親はまだメディアの取材を受け続け、しゃべり続けています。しゃべり続けるにつれ、言うことにも歯止めが利かなくなっているのではないかという懸念さえ覚えますが、それについては、また改めて整理して書こうと思います。

ここでは10月9日に既に出ていたThe Heraldの記事 Listen to mother on this terrible choice が、今頃になって目に付いたので。

この記事では、脳性まひ者の知能を外見で判断してはならない例としてChristopher NolanChristy Brownの例を挙げています。2人とも重篤な身体障害があることから知的障害も重いものと思われていながら、実際は知能には異常はなく後に自伝的な小説を書いた人。後者は映画化され日本でも話題になった”My Left Foot”他の著者です。

しかし、この記事は2人の例を挙げた後で、「しかし、Katieに選択する能力が本当にないだけだったとしたら?」と問い、そこから「上記の2例とも正常な知能に気づいたのは母親だった。だから母親のAlisonがKatieには何も分からないといっている以上は信じてはどうか。Katieの知能と情緒が正常だったら母親がそう言っているはずだろう」との主張に向かうのです。

Ashleyを巡る論争の時から、私にはずっと不思議なのですが、

表出能力が限られていて厳密に知的な能力を測ることが困難な場合に、つまり「分かっているか分かっていないか確かめられない」時に、「だから知能は低いはずだ」と考えるか、「だから、分かっているかもしれない」と考えるか、2つの対応があり得るわけですね。その際に実際の知能と周囲の認識とがズレていて起こる可能性としては以下の2つでしょう。

①実際には知能が高い人に、知能が低いと決め付けて対処する。
②実際に知能の低い人に、知能が高い可能性を考えて対処する。

この2つのうち、避けるべきはどちらなのか。

私は①の可能性を避けるべきだと考えます。それは当人にとってこの上なく残酷な事態だと思うからです。自分がある日突然、脳卒中で倒れ、意識はあるのに体のどこも思うようにならなくなってしまったら……という想像をしてみれば、①の残酷さは想像できるのではないでしょうか。①の1例を避けるために、数多くの事例が②になるのなら、それでも構わないじゃないかと私は思う。②から生じる不都合や人権侵害が私には想像できないから。

けれど、Ashley のケースでも Katieのケースでも、①の可能性の残酷さを考える人は少ない。

それが私にはずうっと理解できない。

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もう1つ、この記事で非常に気になるのは、Katieのケースに批判の声を上げているのは障害者団体であり、障害者の権利擁護運動の活動家のみであるように書いていること。

これは他のメディアにも当てはまるので、非常に気にかかります。実際には、様々な立場の人からの批判が出ており、その中には同じような障害児の親の批判もあるのですが、それには触れず、「ボロボロになって献身的に障害児のケアをしている健気な母親」と「その苦労を理解せず不当に権利ばかりを主張する障害者団体」という単純な対立の構図を作ることが、まっとうな報道姿勢でしょうか。

それは、Katieの母親が「批判しているのは障害者団体だけ。じゃあ、あなたたち、私が介護にどんな苦労をしているか見にきてごらんなさいよ」と言い放つ残酷さを、社会全体が障害者に対して(そして自動的に要介護状態の高齢者に対しても)投げつけることになるのでは?