なぜ「たやすい決断」を強調するのか

初めてアシュリーの親のブログを読み、当初のメディアの記事を読む中で、とても不思議に思ったこと。

何故この父親は、これほど「難しい決断ではなかった」と繰り返し言い張るのか。
何故そのことに、これほどこだわるのか。

「この決断は多くの人が想像しているように困難なものではなかった」との主張は
ブログの中では2回繰り返されている他、
1月7日に新たに追記された部分では
「娘にこの療法を提供することは容易な決断だった」とまで言い切っています。
1月3日から5日にかけてのメディアの電話取材の際にも、
必ず「難しい決断ではなかった」と強調しているのです。

当時、多くのブログには「苦渋の選択なのだから」、
「さぞ苦しんで決断されたことでしょう」、
「この決断に至るまでにご両親はどれだけ苦い涙を流されたことか」
といった同情の声が次々に寄せられていました。

これらは、両親の気持ちを思いやる温かい言葉なのですが、当の父親は
「多くの人は難しい決断だったと思っているようだが、自分にとっては決して難しい決断ではなかった」
と機会あるごとに何度も、それを否定したのです。

まるで世間の「どんなに苦しんで……」との声に苛立つかのように。

彼は「どんなに難しい選択」、「どんなに苦しまれたことでしょう」などと言われることが、
本当に心底イヤだったのではないでしょうか。

やめてくれ、自分はそんなふうに、べしゃべしゃと感情に溺れるような愚かな人間ではないのだから、と。

メリットとデメリットをきちんと分析すれば答えは明らか。
自分はそのように合理的に判断したのであり、
そのような理性的な考え方のできる自分にとっては、決して難しい決断などではなかった、
むしろ理にかなった易しい決断だったのだ、

と彼は言いたかったのでは?

つまり、彼が何故このことにこんなにこだわるかというと、
おそらくそれが彼にとって rational thinkingの問題だったからなのですね。

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ちょっと唐突な個人的感想になりますが、

私はトランスヒューマニズム系の人が書いたものを読むと、
「頭は飛び切りいいだろうし、rationalなのかもしれないけど、ここには知恵というものが欠けている」
といつも感じます。

アシュリーの親のブログについて、
ほとんどのメディアが「深い愛情があふれている」とか「親の愛情には疑いがない」と書き、
数多くのブログでもそう書かれました。

が、あのブログには情の温かさというものが欠けている。
あるのはの愛情であり、がない。
理屈で愛情を訴えてはいるけれども、その言葉に優しさとか温かさが感じられない。
せいぜい「これも愛情なのだとすれば、愛情にも様々な形があるのだな」と。

いえ、あくまでも個人的な感想です。