不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 1

Hastings Center Report の3-4月号に、
以下の“アシュリー療法”関連のエッセイが掲載されていました。

The Ashley Treatment: Best Interest, Convenience, and Parental Decision-Making
By S. Matthew Liao, Julian Savulescu, and Mark Sheehan


簡単にこのエッセイの内容をまとめると、ポイントは以下の3点になります。

・正常な体が本人の不利になる場合があり、
アシュリーのケースでは体が小さい方が確かにQOLの向上に繋がる。
したがって成長抑制は本人の最善の利益となり、妥当。
介護者の都合という動機は本人への利益に影響しない。
ただし今回の病院内倫理委員会のように独立した倫理委員会でケースバイケースの検討が必要。

(その今回の倫理委員会の独立性に
大いに疑問がある
ことを当ブログでは指摘しているのですが……。)

・子宮と乳房芽の摘出の理由には多くの矛盾があり、リスクと利益のバランスが取れない。

・子を愛する親の義務にも限度はあるはずで、それは子育てや高齢者介護の問題にも通じる。
介護家族に対して支援する社会の集合的義務というものがあり、
アシュリー療法を批判するのであれば、社会として支援する用意がなければならない。

もともと筆頭著者のS. Matthew Liaoが、
子を愛する義務を負うのは生物学上の親だけではなく、社会の健常者の集合的義務であるとの
「子どもの愛される権利」論を持論としていることが、このエッセイの背景にあるようです。


出色は、両親と主治医らが挙げている子宮と乳房芽の摘出の利点について、
非常に詳細に矛盾点を指摘している部分でしょう。
(特に太字部分はあまり他では指摘されていない内容かと思われます。)

・生理や大きな乳房から予想されている本人の不快は明確なものではなく、
工夫次第で侵襲性の低い方法で回避できる。

子宮摘出によって卵巣のホルモン分泌が阻害され、
それによって心臓病や骨粗しょう症のリスクが高まる

・手術そのもののリスクが無視されている。

・子宮と乳房芽の摘出の理由として親と主治医が挙げている
「レイプされた時に妊娠しないよう、性的虐待を招かないよう」という部分について、
性的虐待の責をアシュリーに負わせている」。

・子宮や乳房の病気予防については、
同意能力のない人に対しては過激な医療よりも定期的な検査での対応が常識的だろう。

・Dovorskyの述べる体と知的レベルの“つりあい”には根拠がない。
この論理が通用するなら、
認知症になった高齢者も赤ん坊と同じ体にしよう、乳房はいらない、というバカな話になる。

・乳房芽の摘出はアシュリーのジェンダーアイデンティティの形成を阻害する。


どうやらこのエッセイの論旨は
成長抑制は妥当だけれど外科手術は論外ということなのでしょうが、

しかし不思議なのは、前半の成長抑制を妥当とする部分での論の進め方。
こちらは上記の外科的処置についての部分と違って、やたら強引なのです。

成長抑制を是とするLiaoらの大きな根拠の1つは、
正常な体が本人の不利になる場合がありアシュリーはそれに当たる、というもの。
しかし、その「正常な体が不利になる場合」として彼らが挙げる例は
以下のように、いかにも極端。

H・G・Wellsの短編小説にある「盲目の人の国」では目が見えることが不利になる。
騒音だらけの国では耳が聞こえることが不利になる。
四肢が揃っていることに患者が不全感を覚えるapotemnophiliaでは、
患者の心理的安定のために医師は四肢を切断する──の3例を挙げ、

だから「アシュリーのケースでも正常なサイズの体を持つことは本人の不利になる。」
したがって
「アシュリーの体や周囲の状況を考えれば、成長を抑制することは総じて本人の利益にかなう。」

さらに別の箇所では、

もしもアシュリーの障害が通常の人間の5倍の大きさに成長するというものだったとしたら、
薬で成長を抑制したところで反論はないだろうが、これも介護者の都合であることは変わらない。

「これ(5倍の成長を止めること)が正しいのなら、
問題は成長抑制が行われてよいかどうかではなく、
成長を何時とめるべきかということだ。」

極端な例からの飛躍のほかにも、
子宮と乳房芽の摘出について自分たちが指摘しているのとそっくり同じ矛盾を、
著者らはここで犯しているのではないでしょうか。

エストロゲンに発がん性や血栓症のリスクが指摘されていることは無視しているし、
「正常な体が不利な場合がある」という論理が通れば、
全ての重症児が成長抑制を受けなければならないことになります。
体が不自由になったり認知症になった高齢者にも当てはまるでしょう。

このように、子宮と乳房芽摘出に関する部分と比べると、
まるで別の文章かと思えるほど成長抑制に関する部分は論理が乱暴なのです。

結局、このエッセイが言いたいことは一体何なのでしょう???? 

エッセイ末尾の結論も、
「だから介護支援策を」というよりも
「批判するなら介護支援をする覚悟があるんだろうな。
尊厳を維持するには、それだけのものが要るんだぞ」と、
どこか脅しめいたトーンなのですが???

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それにしても……

親だってアシュリーをケアするためにジムに通ったり副作用のあるステロイドを飲む必要があるとか、
また介護者を雇う費用で貧乏になるならば、
そこまでしなくたっていいだろう、と言われても……。


アシュリーをいつまでも抱いて移動させられるために親がステロイドで筋肉を増強……
などという辺りに、なんとなくひっかかるものを感じたので、
ネットで著者3人を当たってみました。

すると彼らもまた、奇怪な人たちなのでした。

こちらのエントリーに続きます。