「グロテスク」論は成り立たないが……

知的レベルが低い人が成熟した肉体をもっていたら、
そのアンバランスが「グロテスク」であるとか「フリーク」であるとか、
「シボレーのエンジンを積んだキャデラックみたいなもの」
「気持ちが悪い」と言って、
アシュリーに行われた成長抑制を擁護した人たちがいることを、
これまでいくつかのエントリーで紹介しました。
(「擁護に登場した奇怪な人々」の書庫を参照してください。)

「成長抑制は知的レベルと肉体年齢のギャップを小さくして、
 知的障害者を周囲にとって受け入れられやすい存在にするから、
 アシュリーに行われた医療はOK」という彼らの論理は、
成長抑制の内容を冷静に振り返ってみると、実は成り立たちません。

なぜなら、アシュリーに行われた成長抑制は、
厳密にはむしろ身長抑制と呼ぶべきものであり、
決して成熟を止めたわけではないからです。

Diekema医師は、
「別に外見を変えるためにやったことではない、
アシュリーは背が低いだけで年齢相応に歳はとる」と言っています。
外見は年齢相応に成熟するわけですから、
30歳になれば背の低い30歳の女性。
60歳になれば60歳の顔であり、
小さなまま60歳の体になるということです。

今後アシュリーがそのように年齢相応に成熟していく姿を考えた場合、
HughesやFostらの「グロテスク」感覚でいくと
年齢と共に「知的レベルとのギャップ」は却って大きくなるはず。

むしろ背が低いだけ、
小さな体と年齢相応に成熟した顔にもギャップが感じられるようになるかもしれません。
「知的レベルと肉体年齢とのギャップは気持ちが悪い」という美醜感覚からすると、
成長抑制療法はそのギャップを少しも縮小せず、
むしろ知的レベルと年齢相応に成熟した顔・体とのギャップ、
小さな体と年齢相応の顔とのギャップを強調して、
アシュリーをよけいに「グロテスク」で「気持ちが悪い」存在にしただけだということになるのでは? 

つまり、
知的レベルと肉体年齢とのギャップがもたらす嫌悪感を解消するから”アシュリー療法”はOKだ
という彼らの論理は、

アシュリーに実際に行われたことが今後もたらす効果を考えると、成り立っていません。


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……ということを考えていると、ふと頭に浮かんだ単純な疑問。

もしかしたら、彼らが「知的レベルとの不快なギャップ」を感じる「成熟した肉体」というのは、
本当は体の大きさ・背の高さのことなどでは全然なくて、
「成熟した女性の肉体」のことなのでしょうか? 

「知的障害のある女に成熟した大きな乳房があること、子どもを生める機能(子宮)をもっていること」が、
彼らの男としての美醜感覚にとってグロテスクであり気持ちが悪いといっているのでは? 

「知能が低い女が一人前に大きなおっぱいをしていたり、母親になれる機能があるなんて、ボクには気持ちが悪い」と??

それなら全く個人的な趣味の問題に過ぎません。
ただのオッサンのヨタ話でしょう。

「知的障害の重い女は女として認めたくない」のも、
プライベートに口にしている限りはオッサンの個人的な勝手かもしれません。

しかし、彼らは生命倫理の専門家としてメディアに登場しているのです。
そして、あたかも客観的・専門的な見地からの発言であるかのように装って
「知的障害の重い女は女として認めたくない」という個人的オッサンのヨタ話的趣味を語り、

それによって
「知的障害のある女は女じゃない」→「だから子宮も乳房も切除しても構わない」という方向へと
世論誘導を試みているのです。

論争の中で
「生後3ヶ月相当の知能なんだから、子宮をとっても乳房芽をとっても仕方ないよね」と
考えた人が少なくなかったことを思うと、
彼らの誘導は成功していたのでは??