知的障害者への嫌悪感 (Norman Fost 3)

1月5日のScientific American.com のメール討論でのNorman Fost医師の発言のうち、
もっとも過激な(正直な?)部分を以下に。

発達段階にふさわしい体のサイズの方が
“怪物 freak”にならないですむという父親の意見に私は同意する。
(ただしfreakは父親が使った言葉ではないが)

重い知的障害のある大人を見ると不快になる気持ちの中には、
発達段階と肉体とのアンバランスが美的でないということがあると私はずっと考えてきた。

認知能力や運動能力、社会的技能などが限られてはいても、
生後2ヶ月の赤ん坊に嫌悪感は感じない。
が、生後2ヶ月の赤ん坊が20歳の体の中にいるとなると、
そのギャップは気持ちが悪い(jarring)。

そこで思い出されるのは、
数年前にキャデラックがシボレーのエンジンを積んで出荷されてしまったのが判明したスキャンダルだ。
そうと知らされるまで持ち主たちは気がつかなかった。

もしもアシュリーのような子どもたちが魔法でもって乳幼児の外見を維持できるとしたら、
その方が物理的にケアしやすいだけではなく、
周りが彼らに見せる反応も好意的なものになるだろう。
もちろん、これは他人の場合の問題であって、親は別だ。
親はアシュリーに対して麗しくも愛情を感じているようだし、
彼女のことを美しくて存在感があって、それなりの役割もある家族の一員だと考えることに
苦もなさそうだから。

最後のセンテンスには、「自分には不思議でならないが」といったニュアンスが漂っています。

また、ここでのFost発言にも、
Hughesの「グロテスク」発言と同じ、
自分たちの美醜意識は世の多くの人に共有されて、
すでに1つの価値判断にもなっているはずだとの思い込みが顕著です。

「シボレーのエンジンを積んだキャデラック」、「フリーク」といったFost発言は極めて不穏当で差別的ですが、
HughesやDvorskyやDiekemaやGuntherらが
「グロテスク」だとか
「生後数ヶ月の精神機能には小さな体のほうがふさわしい」、
「アシュリーには赤ん坊扱いされる方が、より尊厳がある」
などと別の言葉で様々に表現していることを
実は最も正直に言い表しているのではないでしょうか。
つまり、実はこれが彼らのコアなホンネなのでは?

少なくとも、Hughes、Doversky、Bostromらは、
薬物はもちろん、あらゆる新興テクノロジーを駆使して
人間の考えられる限りの能力を強化し、不死を実現して、
“超人類”を作り出すことを夢見ているのです。

「能力の向上・強化がすべて」、「能力こそが価値」という彼らの倒錯的な価値観からすれば、
重い障害のある人というのは最も価値の低い存在として捉えられるのでしょう。

彼らの嫌悪感の根底にあるのは、「無価値なもの」に対する蔑視なのではないでしょうか。
「知能が低いくせに体だけが一人前になっている人間」というのは
「中身が外見にふさわしくない」と感じられて「グロテスク」だと嫌悪感をもよおす。
だから、そんな「気持ちの悪い」ものは排除したい。

それが本当は彼らがアシュリーの父親に共感する一番中心的な理由なのでは……?