倫理委を巡る不思議 ③医師らの論文の矛盾

病院サイドからはアシュリーのケースを検討した倫理委についての詳細が出てこない、という話はすでに書きました。医師らの論文も同様です。

ところが、医師らは論文の中で当該倫理委のメンバーについてあたかも報告しているかのようなマヤカシを仕組む一方で、くどいほどにセーフガードの必要を説き、慎重な検討の必要を訴えてもいるのです。これは一見、非常に矛盾しています。この療法の適用には慎重な議論が必要だと説くならば、それはそのまま、アシュリーのケースでも如何に慎重な議論が行われたかを論証すべき必要を自覚していたことにもなるからです。執筆者自らnovel and untested と形容した療法の適用第1例であることを考えれば、なおさらでしょう。今回はこれほど念入りに厳密な議論を行ったとその過程をきちんと論証した上で、今後も同様のセーフガードが必要と説くのであれば筋が通りますが、彼らがやっているのは今回の検討メカニズムについてはほっかむりしたまま述べず、そのくせ今後のセーフガードの必要だけを説くという“ちぐはぐ”振りなのです。

しかし「他児への適用を巡る医師発言の変遷」の2回で検証したように、医師らが論文執筆時点において最も強く良心の呵責を感じていたとの仮説に立って眺めてみれば、どうでしょうか。この矛盾こそ、むしろ彼らの良心の呵責を表しているとは考えられないでしょうか。

当該倫理委のメンバー構成については書かなかったのではなく、書けなかった。悪質なマヤカシを仕掛けてでも誤魔化さざるを得ない事情があったからこそ、一方でセーフガードの必要をくどいほど強調しないではいられなかった……としたら?

同様の仮定に立って、たとえば以下のような論文の一説を読み返してみると、これまでに読んでいたのとは、また違うものが書かれているようにも思えてこないでしょうか。

成長抑制療法の恣意的な適用に対してガードするためには、適切な適用を保障するためのフォーマルなメカニズムが存在することが適当、いや恐らく必要ですらある

「フォーマルなメカニズムが存在することが適当」といったあとで、わざわざ「いや、恐らく必要ですらある」と言い直してまで強調したのは、いかなる無意識のなせるわざでしょうか。

なぜ「フォーマルな」という表現を使ったのでしょうか。そういえば、前回のエントリーで2004年5月5日の倫理委員会がSpecialと銘打たれていることを指摘しましたが、あの委員会は果たしてフォーマルだったのかインフォーマルだったのか。そもそも通常の倫理委との関係でどのような位置づけの“特別”倫理委員会であったのか、改めて気になるところです。

そして、なぜ、わざわざ「恣意的な適用」という表現を使ったのか。論文は過去の優生手術などに見られる「虐待」については、「過去に虐待があったからといって目新しい療法をやってみてはいけないことにしてはならない」などと、実に無頓着なのです。「虐待」についてはほとんど心配していないのに、なぜ「恣意的な適用」については再三にわたってセーフガードを説くほど強く案じているのか。

「インフォーマルなメカニズムによる恣意的な適用」が懸念されるような事態があったのでしょうか。

もしも医師らがこの段階では非常に強い良心の呵責を感じており、ここでセーフガードの必要を強調することによって無意識のうちに、ある種の警告を発していたのだとしたら……?