論文の結論の不思議

親が「そうだ、アシュリーだけではなくて広く多くの子どもたちにもやってあげればいいじゃないか」と考えを発展させた可能性があるのは、アシュリーのエストロゲン大量投与が完了する少し前の段階ではないかとの推論を前回のエントリーで提示しました。

親が広く推奨しようとの考えを抱いた可能性がある時期(もちろん、あくまで推測です)は、医師らの論文が書かれる数ヵ月前ということになります。

これまで指摘してきたように、どちらかというと執筆者の医師らは本当は書きたくなかったのではないかと思える節のある、あの論文です。乳房芽の切除の事実も子宮摘出の本当の理由も隠し、あたかも成長抑制療法のみについての論文であるかのように装って、ホルモン投与の時期は1年も過小に偽り、このケースを検討したという倫理委のメンバーについては書いてもいないのに書いたと読者が受け取るような手の込んだ誘導を仕組みこみ、そして政府の在宅化推進の方針まで持ち出して、しかし全体に何もかも曖昧模糊としたままに書かれている……といった論文。隠しておきたいことだらけで、それならいっそ論文発表などしなければいいではないかと思うほど隠蔽やごまかしに満ちた論文でした。だからこそ、医師らには本当は発表などしたくなかったのだけど、そこに何かどうしても書かざるを得ない事情というものがあったのではないかと推測するわけです。(「論文のマヤカシと不思議」の書庫を参照してください。)

これらの推測を念頭に、では論文で医師らは「この処置を広く推奨する」ということに関してはどのような書き方をしているかを当たってみると、この論文の思いがけない特性とでもいったものが浮かび上がってきます。

まず、アブストラクトの最後の1文。
もしも万が一親が要望した場合には、適正なスクリーニングとインフォームド・コンセントの後に、成長抑制療法がこのような子どもたちに治療のオプションとして提供されることを提唱する

さらに、イントロダクションの最後の1文。
親がこのような介入を望んだ場合には、この介入は医療的に実施可能でありまた倫理的にもdefensibleであると我々は提案する
defensible とは、ここでも医師らのホンネが”語るに落ち”ているのではないでしょうか。やったとしても、倫理的にもまぁ釈明はできそう(ごまかせそう)……だと?

そして興味深いことに「症例報告」の中では、
倫理委は、成長抑制と子宮摘出の要望はこの症例においては倫理的上適切であるとのコンセンサスに至った

倫理委がこれら処置そのものの妥当性についてコンセンサスに至ったとは書いてないのです。彼らが適切と認めたと言っているのは、あくまでも親の要望であることに注目してください。2006年5月5日の倫理委は、ホルモン投与によって重症児の身長の伸びを止め、健康な子宮と乳房芽を摘出するという医療介入そのものの倫理上の是非を検討する場ではなく、そういうことをやりたいとする親の要望の方の是非を検討する場だったのでしょうか。微妙な違いのようにも思えますが、これは非常に重大な違いだと私は考えています。

話を本題に戻します。

この、一体何についての論文なのか、何を報告したいのかしたくないのか、何を言わんとして書いたのか、すべてが曖昧模糊としている論文の、では結論とは一体なんだったのでしょうか。

「結論」の冒頭の1文。
生涯にわたって歩くということのない、重篤な発達・神経・認知障害のある子どもに成長抑制を望む親の気持ちは、理にかなっており理解できるものと思われる
A parent’s desire ……….seem reasonable and understandable.

「結論」の項目では、この後に「この論文ではリスクとメリットを秤にかけて、リスクがメリットを超えるものではないと論じてきた」という趣旨の文が続き、セーフガードの必要を強調した後に、論文は以下のように締めくくられます。

親はnovel and untested な医療介入のリスクと不確実性について知らされるべきである。それらのセーフガードが存在すれば、このような療法は倫理的かつ実施可能であり、親へのオプションとして提供されるべきであろう

novel and untested については既に指摘しましたが、こうして「結論」でまで繰り返されると、彼らはやはりこの療法の妥当性に実は口で言うほどの確信がなかったのではないかと思えてきます。「不確実性」を親に説明しておかなければならないとわざわざ付け加えているということは、独自にリサーチし自分で思いついたアイディアに親が自分で期待しているほど大きな効果があるかどうか、まだ分からないという懸念を医師の方は抱いていたのでしょうか。(もっとも、この効果の点を疑問視する声は論争の中でも他の医師から出ており、実際のところ、それについては先になってみないと分からないわけですが。)

ここでもまた、「親へのオプション」なのです。親が望んだ場合には……親の要望は倫理上適切……親の要望は理解できる……親へのオプションにすべき……。

この論文がそれまでの事実経過からして親を意識しているのはある程度やむをえないにしても、これは尋常な程度といえるでしょうか?

論文の結論が「こんなことをやりたいと言う親の要望はもっともなのだから、親が望めばやらせてあげるべきだ」という主張であったことを、論争に加わった多くの人は知っていたのでしょうか。