伊藤比呂美『読み解き「般若心経」』を読んだ



いや~、めっちゃ面白かった!!

表紙に「エッセイ + お経 + 現代語訳」とあるように、
カリフォルニア在住の詩人が熊本在住の老親の遠距離介護の生活の中から、
死について考え、そうした自分自身の必要からお経と出会い、お経にはまって、
お経について勉強しつつ、勉強したことを自分の体と自分の痛みを通過させて後、
自分自身の言葉でぐんぐん自在に読み解いていく、という趣向の本。

タイトルは般若心経だけれど、
いろいろなお経が読み解かれ伊藤比呂美語に訳されている。

私は「般若心経」と「白骨」くらいしか
まともに読んだことがなかったから
どれもこれも面白かった。

解説の山折哲雄氏は次のように書いていて、

「お経」というより「お経」のコトバの世界といった方がいいのかもしれません。仏教とか教義とか宗派とかいった次元の話を超えて、詩人の魂が「お経」の中に噴出する渦巻きのようなコトバ、迷路のようなコトバの海に反応し、それをもう一つの異次元のポエムの岸辺にたぐり寄せようとする涙ぐましい試み……


これは、宗教学者としては、
ここに伊藤比呂美語になったものは
お経の正当な「現代語訳」とか「読み解き」とは認められないという
さりげない否定なのかもしれないけれど、

でも、それが、どーした? と思えてくる。

ずううぅっと昔、
ものすごく苦しいことを抱えていた時に
京都で、ふらっと迷い込むみたいに東寺の境内に足を踏み入れたことがあった。
そして大日如来の前に立って、あの大きな像を見上げた時に、
ずっとずっとはるかな昔から、多くの人がこうしてやるせない思いを胸に、
こうしてこの像を見上げてきたんだ……ということが
思いがけない痛切さで実感された。

どの時代にも人々が
もうどうしていいかわからない、これ以上生きていけない、というほどの思いを抱えて
この大きな仏像を見上げ、すがり、救いを探したんだということが
たいそう生々しく感じられて、そこにしばらく立ち尽くして、
自分自身の苦と向き合いながら、大日如来を見上げたまま、
そのことをずっと考え続けた。

この本を読み始めてしばらくして
あの日のことが思い出された。

伊藤比呂美はそういう衆生の一人として
お経と出会い、お経と向かい合っているんだと思う。

衆生や仏教を学ぼうとする人に向かって
お経の意味を解説し説教する僧侶や学者の位置に立って
読み解いたり現代語に訳しているわけではなくて。

だって信仰し、お経を唱える人にとって、
お経って、もともとそういうものなんだと思うし。

「これまでこうして生きてきて、今ここにこうして痛みながら生きている自分」を
全部引っさげて、自分自身の「今ここ」に立ちながら、
その自分の「今ここ」のやむにやまれぬ思いの中に、
お経と出会わなければいられない必然を抱える人が
そうして生きてきた自分やそうして生きている自分の体を通して
自分のお経と出会い、発見し、自分の体を伴った言葉にしている。
だから、ものすごい迫力があるんだ、と思う。

……お経の解説書をいろいろと読んでみた。でもぜんぜん頭に入ってこない。つまらない。悟れない。生臭い。あたしが悪いのだ。でもあたしはあたしである、あたしが中心である、あたしなのである、という、やっと握り締めた実感を、手放してどうするのか。どうしようもなくなるであろう。


この人、田中美津みたいだ、と思う。

続いて著者は次のように書いている。

 それでも父が目の前で、死ぬに死ねない。生きるに生きられない。母も、伯母も、そんなふうだ。
 あたしがさんざん愛されて、あたしもさんざんかかわってきたこの人々が、いままさに死に向かおうとしているのに、手段を知らない。中有に浮いているような父や母や、それから叔母を、浮いたままでいいから、きちんと死の向こうに送り届けるためには、どうしたらいいのか。
(p.80)


このちょっと前には
以下のような箇所もある。

まったくこの頃のあたしは、死に取り憑かれている。
 何を読んでも、人の死に様ばかり目にとまる。
 昔の人は、四十や五十でかんたんに死んでいった。それがどうして、今の世は、こうしてだらだらと、死ぬに死ねず、植物のように緩やかに死んでいかなければならないのか。
(p.79)


だから、著者がずっと考えているのは
看取りの問題であり、終末期医療の問題でもあるのだけれど、
そこで書かれていることは、そういう言葉で捕らえられたり語られたりしている「問題」とは
ずいぶん距離があるし、

誰かにとっての誰かの死というのは、
「要するに、こういうことを著者は言っている」と要約できるようなものじゃなくて、
だからこそ「あたしなのである」なのだし、あたしの痛みであり
あたしの目の前にいるあたしの父の、あたしの母の、あたしの叔母の痛みであり、

だからこそ、お経だったんだ、
「学者が認める正しく解釈されたお経」ではなくて、
「あたしの腑に落ちる、あたしのお経」なんだ、と納得されたりもする。

「死の自己決定権」推進の立場の人たちがよく言うことの一つに
ペットだったら苦しまずに安楽死させてもらえるのに
人間はそれを許されないのは尊厳がない、という主張があって、
そのことは頭の中にずっとひっかかってもいるし、

「犬や猫程度の意識」というある医師の表現について
23日に出る拙著でもちょっとこだわってみたところでもあって、

個人的には
『読み解き「ひじりたちのことば」いぬの話』の章が特に面白かった。

著者が犬に向けるまなざしは
人間に向けるまなざしとちっとも違わなくて、
そこらへんの観察眼がまたぞくぞくするほど面白いのだけれど、

犬の安楽死については
アメリカの獣医は決断が早い。あたしの素朴な感想を言えば、犬たちはまだ命が続いているのに、はやばやと決断されていくように感じる」(p.103)著者は、

身近な家庭で飼われている犬の安楽死の際に、
「うちの犬の場合は待ちたい、もう死ぬと誰の目にもあきらかになるまで、死ぬものを引き止めたくはないが、受け入れてもやりたい、生きたいという生き物の欲望を、とあたしは夫に言った。夫もこれに同意した」(p.104)

面白いのは、この夫婦の会話がそのまま
30歳年上であちこち既にガタがきている夫の死の話題へと
妻によって強引に移行していくこと。

「ざまみろ。人は誰でも死ぬのである」
「ふふふ。ざまみろ。
人は、誰でも、死ぬのである」
と繰り返されている、ここのシーンは本当に圧巻なので、
全部書き写したいくらいなのだけれど、
せっかくこれから読もうとする人のために我慢して、
このシーンのオチのところだけ。

……「おまえはこのごろ死に取り憑かれている。口を開けば死のことばかりだ、おれたちはまだ生きているのに」
 憎々しげに聞こえるのは、あたしへの憎しみではなく、たんに彼の生きたい欲望が、凝り固まってぎらぎらと反射しているだけなのである。
(p.106)


この本の中でいろいろ読み解かれているお経は
私としては「発願文」が胸に染みてきたけど、
一番ズキリときて残ったのは、親鸞の「殺してくれよ」だった。

それから最後の章の副タイトルにあった、
「いつか死ぬ、それまで生きる」という言葉――。

これを思い出した ↓
選ばないことを選び、生きられるだけ生きる(2009/5/2)