【論文】研修医は<説得の儀式>や<希望つぶし>で誘導する

ある方から、大変興味深い論文をお知らせいただきました。
(Mさん、ありがとうございました)

研修医は医療行為をすべきか悩み、誘導する - ポートフォリオ相談事例の質的分析から
福士元春、名郷直樹
日本プライマリ・ケア連合学会誌 2012, vol. 35, no. 3, p. 209-215


インターネットで全文が読めますが、アブストラクトは以下。

目的:後期研修医から相談された事例を分析することで,研修医が直面する臨床上の問題を分析・構造化し,ポートフォリオを用いた指導・評価のための方法論を模索する.

方法ポートフォリオ作成支援のための個別面談でのやりとりを音声記録したものをデータとし,Steps for Coding and Theorization(SCAT)を一部改変した方法にて質的分析を行った.

結果:研修医は<医療行使主義>と<医療虚無主義>の両極端の間に立たされ迷う場面に遭遇する.その両極端に悩みながら,<説得の儀式>や<希望つぶし>といった,どちらかの極端に誘導するための方法を用いる傾向がみられる.

結論ポートフォリオを介した研修医との面談から,臨床現場で起きている問題構造の一端を明らかにできた可能性がある.臨床上の決断の傾向を構造化することで,臨床現場での指導に役立つ可能性が示唆された


研修医の指導に「ポートフォリオ」?? と
まず基本的なところでspitzibaraと同じ疑問を持たれた方は、こちらへ ↓




この論文が言う<医療行使主義>とは、

「早くから介入しといたら」「気管切開を選んでもらう」「診断を下すっていうことが,医学的に何か,私ができることなんじゃないか」などのテキストデータに代表されるように,患者本人や家族の希望に関わらず,治療や診断行為などの医療的介入は行われることが前提であるという研修医の傾向が,抽出されたやりとりの中では頻繁に垣間見られた.…(中略)…そこで、どんな医療介入も行使されることが前提, という研修医の傾向を<医療行使主義>と言い換えた。

<医療虚無主義>とは

「してもしょうがない」「ここまでしなくても」「もしその場にいたら, おそらく「挿管しよう」って, 私は言わなかった」などのテキストデータに代表されるように, 患者本人や家族の希望に関わらず、治療や診断行為などのどんな医療介入も行われないことが前提であるという研修医の傾向が、一部のやり取りの中で垣間見られた。<医療行使主義>とは対極に位置づけられるこのような特徴的な現象は、解析には重要であると考えられたため、<医療虚無主義>と言い換えた。


その上で、以下のように概念化。

……研修医が記述に困難さを感じる局面では、<医療行使主義>と<医療虚無主義>の【両極端の間に立たされ迷う】という現象が見られていると概念化した。
 本来、治療方針の判断は最終的に決定されるべきことではあるが、患者本人や家族の意向なくしてあらかじめ方向性が示されていることは、研修医にとっては葛藤や不安感を軽減する作用が期待されているのだろう。


<説得の儀式>とは

……治療方針を協議するプロセスであるはずの家族カンファレンスの場面における相談では、在宅医療の準備をして退院、精査のため広報病院へ紹介など、研修医がすでに決められた方針へ積極的に誘導しようとする言動がうかがえた。……やりとりからは研修医が日常的に慣習化した手順として誘導していることが推察された。このような無意識に慣習化した現象をグループ化して<説得の儀式>と言い換えた。

<希望つぶし>とは

 また、患者や家族が治療や今後の予後に対して過度の期待を持っている事例における相談では、「人間の死亡率は100%」「ちょっと厳しい感じで言って」など、期待を諦めさせようとする言動が見られた。このような現象をグループ化して<希望つぶし>と言い換えた。


で、先ほど指摘された【両極端の間に立たされ迷う】場面に直面した研修医は、
<説得の儀式>や<希望つぶし>という【いずれかの極端に誘導するための方法】を
用いる傾向がある、と分析。

しかし、この論文のデータが非常に興味深いのは、一部の例外で、
患者に<振り回されてみよう>と【両極端の間に耐える】という行動へ至った事例があること。

それから、結論の以下の部分。

特に治療方針の決断については、倫理的な葛藤として取り扱われることがあるが、さらに視野を広げ、医師や医療従事者の行動全般を構造化することによって、医療現場で起きている問題を異なる次元で記述することができるのでは何かという可能性も示唆された。


これ、次元の違いというよりも、
「倫理的な葛藤」という哲学的な問いであるとされる問題の背景に
実際は潜んでいるものを解明することのような気がする。

「倫理的な葛藤」への答えを見つけようと試みられるのではなく、
医療職側の「葛藤や不安を軽減する」ために、
どちらか一方に誘導して決めてしまおうという心理が働いている、と。

この論文を読んで私が思い出したのは、
ワイルコーネル大の脳神経科医、Joseph J. Finsが
植物状態や最少意識状態の患者で、医師らが最悪の予後を予測して
家族に治療の中止を勧めがちなことについて言っていた、

「早いところさっぱり決着をつけてしまおうと
分からないことが沢山あるのに無視してしまっているが、
そんなに早くから一律に悪い方に決めてしまうのは間違っている」という発言。

睡眠薬による「植物状態」からの「覚醒」続報(2011/12/7)
(このエントリーの中では上記の発言は訳していませんが、このNYT記事での発言)


Fins医師は、時間をかけて待ち、様子を見るべきだと言っているのだけれど、
希望とも絶望とも、どちらとも先が見えない状態で「待つ」のは苦しいこと。
それが、この論文の「耐える」という言葉によく表現されていると思う。

実際、この論文の言葉を使えば
日本の尊厳死・平穏死議論を含め、安楽死・自殺幇助議合法化議論は
<医療行使主義>を批判しつつ、包括的な<医療虚無主義>へと
短絡的に誘導しているという気がするし、

また日本の「平穏死」本の著者らによる誘導の方法が、まさに、
この論文の著者が絶妙なネーミングを与えているように
<希望つぶし>による、医師の権威に基づいた<説得の儀式>。

でも、仮に<医療行使主義>が行き過ぎているのだとしても、
それに対する問題解決の解は、決して、一気に<医療虚無主義>へと振れることじゃない、と思う。

解は、その両者のどちらでもないところで、
「早いところさっぱりと決着をつけてしまいたい」衝動に耐えて、踏みとどまり、
「さっぱりしない」悩ましさや重苦しさを引き受けつつ、
個々のケースの個別性の中で、関係者みんなが尊重されつつ
丁寧に考えて判断すること、なのでは?