「米国の救命優先ルールの轍を踏まず、英国医師はDNR決定権守れ」

英国ではこのところ
患者も家族も知らない内に一方的に蘇生不要(DNR指定)がされるケースが続発して
訴訟になったり、大きな論争になっている。

終末期ケアのプロトコルLCPが機械的に高齢者に適用されている問題も
政府が調査に乗り出す騒ぎにまで発展している。



そんな中で、
英国と米国の両方で医師として働いているElizabeth Dzengという人が
Independent紙に「ヒポクラテスのヒポクリシー(偽善)」というタイトルの論考を寄せて、

米国ではDNR指定が行われていない限り救命を前提とし、
本人や家族の希望を最優先とするために、
患者には苦痛でしかない蘇生を医師も苦痛をしのびながらやらざるをえなくなっているが、

英国では医師会が
医師には無益と判断する医療を提供する義務はないとのガイダンスを出し、
無益な治療をめぐる決定権を明確に医師に認めていると
両国の事情を対比させたうえで、

英国の裁判や論争で患者と家族の決定権に議論が傾きすぎると
米国の二の舞になる、と警告し、

英国の医師らに対して、
患者の最善の利益に沿って行動する医師の能力を守れ、と呼びかけている。


米国の硬直的な救命優先ルールは
ダウン症児の救命手術をめぐるベビー・ドゥ事件での
レーガン政権の過剰なリアクションに根っこがあるというのが私の理解で、
米国のそうした硬直した救命の強制そのものに決して賛同するわけではないし、

まったく患者本人の利益にならない蘇生は行われるべきではないと考えるけれど、
この人が書いていることの中でいくつか気になることはある。

① 著者が冒頭で紹介する体験談は
癌末期で全身から出血していて、もはや死のプロセスに入った患者に
家族が虐待にしかならない救命措置をするよう医師に強要したケース。

しかし一方で、
テキサスのように一方的な生命維持の停止を認める「無益な治療」論もあるし、
米国の生命倫理学でも医師には無益と考える治療を提供する義務はないというのは
コンセンサスになっていると、あちこちで目にしてきた。

またNavarro事件の頃に読んだいくつかの記事からは、
米国の貧困層にとっては、ERでは救命しなければならない原則があるからこそ
ERが駆け込み寺になっている、という実態も透けて見えた記憶もある。

著者はそういうことは丸無視して、DNR指定にだけ論点を絞ることによって、
米国では患者と家族の決定権だけが暴君化しているかのように描いているように見える。

② Janet Tracey訴訟で、
裁判所が訴訟の続行を認めず、
心肺蘇生の可否は医師が患者の最善の利益を考えて判断すべきだとしたのは
賢明な判断だった、と書いているけれど、


Traceyさんは末期がんの宣告を受けて抗がん剤治療を予定した直後に
交通事故に遭い、首の骨を骨折。でも意識ははっきりしており、
いざという時にも蘇生を望んでいたのに、何の説明もなく
知らない内にカルテに蘇生不要(DNR)指定されていた、というもの。

また、一方的なDNR指定では
こういう事件だって起こっている ↓
「ダウン症だから」と本人にも家族にも無断でDNR指定(英)(2012/9/13)

さらに、LCPの一方的な適用問題は、
もっとひどい事態であることが現場の医師らの告発で指摘されている。



それでも、著者は
The recent focus on autonomy over decisions at the end of life in the UK, through Tracey’s court case as well as controversy over the Liverpool Care Pathway, highlight the need for continued dialogue and clarity on these issues.

Instead, we should work together to foster trust and confidence in the health care system, by encouraging conversations about resuscitation decisions at all levels.

と一方で書いて、対話による医療への信頼構築を説いておきながら、

どうして、その先の結論は
医師の決定権を守ろうと英国の医師らへの呼びかけに落ちていくのかが分からない。

信頼関係構築を言うなら、
結論は、一方的な決定権を振りかざさず、
患者や家族への丁寧な説明と説得で同意をとる努力をしよう、でいいのでは?


③ 文中に引用されているNEJMの論文で、

入院中に心停止を起こした高齢患者6972人の追跡調査をしたところ、
退院から1年経った時点で58.5%が生存しており、
34.4%は再入院を免れていた、という結果となり、

この結果を
医療職はCPRにはこれまで思われていた以上の効果があると捉えたのに対して
一般国民はそれだけしか助かっていないのか、と失望で受け止めたのは
一般国民の心肺蘇生に対する過剰な期待の現れであって

テレビドラマのように心肺蘇生でどんな患者もバリバリ元気に戻ると思い込んでいる、
その過剰な期待のために患者に無益でも家族がCPRを要求するのだ、と、

CPRに関する患者の決定権を否定し、
医師の決定権が尊重されるべきことの論拠にされている。

でも、
CPRにこれまで考えられていた以上の救命効果のエビデンスが出てきた、というのが
その論文の専門的な捉え方なのであれば、それ、素人の過剰な期待のエビデンスに使う前に、
医療職の方が現在のCPRの無益性判断を考えてみるべきかも、という方向に向かわないと、
論理的におかしくないですか?

そういえば、NEJMの論文の他にも、
去年Lancetに、以下の調査結果も発表されていたっけな ↓
「長い心肺蘇生は無益」を否定する調査結果(2012/9/6)



私は著者が言う
「対話を通じて信頼関係を構築する必要」には賛同する。

でも、それならばこそ、
一方的に医師に決定権を認める主張は決して信頼関係の構築にはつながらない、とも思う。




ついでに、DNR指定がされていない限り、
介護施設では救命・蘇生が原則とするジョージア州の州法について書かれた記事 ↓
http://www.lexology.com/library/detail.aspx?g=64cf1bfb-4810-44be-9d3a-615c404ce709

やっぱりDNR指定が法的に有効であるためには
インフォームド・コンセントが前提。

また、ここでもコンセントは患者が「与える」もの。