最小意識状態の患者への生命維持差し控えを上訴裁が認める(英)

昨年12月に以下の判決が出た訴訟の続報。



英国の上訴裁判所が下級裁判所の判断を覆し、

治療続行が「無益」な場合には
医師には生命維持治療の差し控えが認められるべきだ、と判断。

Jamesさんは癌の合併症から12年8月に心臓発作を起こし、
6分間の心肺蘇生を行って最小意識状態となった。

他者への反応はあるが、
医師らのアセスメントでは
Jamesさんが退院できる確率は1%にも満たない。

病院はJamesさんの容体がこれ上悪化した場合には
心肺蘇生を含め、侵襲度の高い治療は差し控えるのが本人の利益だとして
保護裁判所に治療差し控えの許可を求めた。

冒頭にリンクした判決が出た後、
Jamesさん自身は12月31日に死亡。

今回の上訴裁判所の判決では、
前回の検認裁判所の判断は「無益を狭義に捉えすぎて」おり、
「治療を危機対応と病気治癒への有効性でのみ捉えたところが間違っている。
……治療が患者のウェル・ビーイング全般の利益にとって、行うに値するかを考えるべき」。

また、無益性は
患者への治療上の利益が確保されるかどうかによって判断されるべき、との考え方を示し、
「治療は、単独であれ他の治療と併用されるのであれ、命にかかわる病気を治すか
少なくとも緩和する現実的な見込みがなければならない」と。

英国の後見法MCAの実施要領では
「治療が生命を維持するかどうかの判断は特定の状況下で
治療を行っている医師または医療職に委ねられる」としている。

「ここで我々が検討を余儀なくされたのは、生命が終わりを告げようとする状況だった。
したがって、この文脈で「回復の見込みがまったくない」とは、
生命維持治療が行われれば死が避けられるところまで健康状態を回復できないことをいう。



判決そのものを読んだわけではないし、
Popeの記事の書き方にも曖昧な点が多いので、
なんとも言えない部分はあるのですが、

07年のゴンザレス事件08年のゴラブチャック事件の頃には、
「救命することができないのに患者に苦痛を強いているから無益」という話だったものが、
その後、患者の意識の有無が問題となり、QOLやコストまでが問題となってきて、
ここへきて「意識があり他者への反応があっても、退院できるまで回復できないなら
または生命維持治療を要しないところまで回復しなければ無益」と
さらにまた踏み込んだ判断が出てきた、ということ――?

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ちなみに「無益性」概念の定義には
いまだにコンセンサスはないと多くの学者が語っており、

例えばAlicia Ouelletteの”Bioethics and Disability”によると、
主な定義には「生理的無益」「量的無益」「質的無益」がある。

「生理的無益」とは
治療が期待される生理的変化を患者にもたらさなければ無益。

「量的無益」とは
一定の確率で効果があるとされる治療以外は無益。
例えばシュナイダーマンとジェッカーの定義では
「試みられた直近100回のうち一度も効果がなければ無益」。

この点では、以下のエントリーで紹介した08年のJan Staterの講演では
5%以上の確率を基準とするとされています。
オレゴン・プランが採用している基準もこれだと思われます)


そして「質的無益」とは
「全人としての患者に何の利益も与えることができないなら」無益。
単に、その治療で一つ一つの整理的効果が生じるかではなく、
「人としての患者がその治療から利益を受け、
それを喜ばしいことと認識できる」のでなければ無益。

ここでは患者のQOLが問題となり、
その点で医療職の主観が混じってくる、との懸念が言われている。

非常にラディカルな生命倫理を説くNorman Fostは
07年のシアトルこども病院生命倫理カンファのプレゼンにおいて、
質的無益と量的無益の堺は曖昧で、その患者を
救うに値すると社会が認めるかどうかという問題だ、と
明らかに治療ではなく患者の無益論と思われる主張をしています。

これらから考えて、今回の上訴裁判所が採用した「無益」とは
患者のウェル・ビーングを言っている点では「質的無益」のようにも思えながら、
一方で、新たな量的無益の基準が提示されているように思え、

見方によっては
「患者の決定権」 vs 「医療職の決定権」という側面のある「無益な治療」論において、
単に「医療職の決定権」を認めたものである、という理解が正しいのか……?

少なくともThaddeus Popeの記事の書き方は
そういう捉え方をしているようにも読める。
そこのところはPopeの書き方の問題なのか。

いずれにせよ、これほど定義に混乱があり、
今なお生命倫理学者の間で定義すらコンセンサスに至っていない「無益」という概念が
こんなふうに生命維持中止の根拠として使われていくことそのものが、いかがなものなのか――。



なお、英国で
植物状態との診断が直接処遇職員の証言で最小意識状態に覆り、
裁判所が生命維持治療の中止を認めなかった女性M(Margo)のケースは以下 ↓
「生きるに値しないから死なせて」家族の訴えを、介護士らの証言で裁判所が却下(2011/10/4)
「介護保険情報」1月号でカナダ、オランダ、英国の“尊厳死”関連、書きました(2012/2/6)

カナダのラスーリ訴訟でも
植物状態との診断が最小意識状態に変更されており ↓
Hassan Rasouliさん、「植物状態」から「最小意識状態」へ診断変わる(2012/4/26)

そうした中で
功利主義生命倫理学者SavulescuとWilkinsonからは
以下のような声が出てきているだけに、


今回の英国での判決は、非常に気になるところ――。