「療育園と家族が本当の信頼関係を築くために」 2

前のエントリーからの続きです)

その同じ教訓を、当時の療育園もリハセンターも同じように学んでくださいました。これは本当にすごいことです。14年前に思い切って声を挙げた時、私は現場の一部のスタッフから「理不尽なモンクをつけるクレーマー」にされました。でも、そのクレーマーの言うことに真面目に耳を傾けてくれる人がちゃんといて、これはただのモンクではなく本質的な問題提起だと理解し、組織として対応してくださった。組織というものが、いかに自己防衛的になりがちかを考えると、療育園もリハセンターも本当にすごい組織だと思います。

その時に、多くの改革が実行されたことは、去年、前園長がお話しくださったとおりです。前園長が「保護者とともに」という文言を含む療育園の理念を作ってくださったのは、この時のことです。今、子どもたちの帰省のときに私たちが持ち帰る連絡ノートがありますが、あのノートができたのもその時ですし、保護者会役員会が定例化され、そこで幹部職員と役員とが毎回一緒に話し合うようになりました。年に一度の個人懇談ができ、カンファレンスに保護者が出席したり、意見を反映してもらえるようになったのもこの時からです。職員研修会で年に1度、療育園の保護者が持ち回りで体験や思いを語るようになったのも、その時からのことです。

S先生はご自身のことは言われませんでしたが、前園長ご自身、あの事件の後、保護者の多くが本当に心から頭が下がる思いになったほどの努力をしてくださいました。そんなふうに多くの人が傷つきながら、本当に血のにじむような思いで作ってきたものが、今の療育園には沢山あります。前園長が「あの時があるから今の療育園がある」と言われたのは、そういう意味です。

保護者会もその時を境に大きく変わりました。保護者会そのものは、ウチの娘が入園した20年近く前にもあったんですけど、当時の保護者会というのは年に1度の総会で講堂に集まって地区のグループごとに役員を選ぶんですね。それから、面会に来る時にはスリッパを持ってくるように、とか、面会の時にはおやつを食べさせ過ぎないように、とか、いってみれば、園の側から保護者に対して伝達事項が伝えられる場でしかなかったんですね。

私は保護者が意見を言える場はないんだなぁ、と思ったものですから、年に1度でいいから園と保護者とが対等に話し合いができる場を作ってほしい、と折を見ては要望するようになりました。何年かそういうことを言い続けた頃に他の保護者も一緒に言ってくださるようになって、言い始めから7年めくらいに茶話会ができました。今、年に1度、療育園で当たり前に行われるようになっている茶話会は、そんなふうにしてできたものです。だから、あの茶話会を園からの一方通行の説明や情報伝達の場ではなく、双方向のコミュニケーションの場として大切に守っていきたいと私は思っています。

14年前の大きな出来事があった時、そんなふうに保護者会も少しずつ成長し始めているところでした。当時はHさんが会長で、この出来事を無駄にしてはならないと言ってくださって、役員会がとても活発になりました。いま研修施設などを利用して家族が宿泊する制度がありますが、これはH会長の時代に役員会が尽力されてできたものです。次にKさんが会長をされた時代には、指定管理者制度障害者自立支援法という大きな危機がありました。保護者会で勉強会や講演会を開き、役員数名で県庁に訴えに出かけたり、K会長は何度も仕事を休んで他の施設の保護者会との協議会に出てくださいました。その後、現在のI会長になってからは、ずっと懸案が山積みのままだった行事のあり方について、一つずつ問題を整理してこられました。

今の療育園では、子どもたちもスタッフも笑顔が沢山あって、少しでも豊かな生活を送らせてやろうとのスタッフ皆さんの思いが本当にひしひしと感じられて、私もいつもありがたいと思っています。それは毎回の行事や廊下に掲示された写真からも分かりますが、ついこの前も、娘を送って帰ってきた時に、奥のBのお部屋(療育園の中でも特に重症の人たちが暮らしている部屋)の子どもさんが、職員の方とゲームのWiiで野球をしておられるところでした。ああ、こういうことをしてくださっているんだ、と嬉しかったです。それから同じくBのお部屋の子どもさんを育成課のスタッフが散歩に連れて出られる場面に通りかかったこともあります。「呼吸が苦しくなったらすぐに帰ってきてね」と看護課の方が見送っておられました。医療の支えがしっかりあるからこそ生活を広げることができるんだなぁ、ということを改めて思い出させてもらう場面でした。いつも本当によくしてくださると思います。

だから、私はここで、保護者はもっと何でも園にがんがんモンクを言いましょう、と焚きつけているわけでは全然ないです。今どんなに良い状況にあっても、人が変われば組織というものはここまで変わってしまうのか、という恐ろしさを、14年前に保護者は身に沁みて体験しました。だからこそ、日頃から信頼関係を作っておくことが必要だと思うんです。人が変わるだけでなく、時代も変わります。時代が変わることによって、同じ人でも変わらざるを得ないこともある。今、そのくらい厳しい時代がこようとしています。

このところの制度改正については園からも何度か説明がありましたが、私も何度読んでも聞いても、細かいところがどうなっているのか分かりきらないです。それくらいここ数年の障害者福祉制度はコロコロと変わっていますし、まだ変わっている最中でもあったりします。細しいことはともかく、ごくざっくりしたお話をすると、これまでずっと日本の障害者福祉の中では私たちの家族のような重症心身障害児者には、特別枠みたいなものが設けられていたわけですね。それが今度は成人した後についてはその特別枠が取っ払われて、他の障害者と一括で同じ扱いになった、ということだと思います。

守る会などが必死の運動をしてくださって、目に見えるところでは当面は今までと同じ生活が守られてはいますが、見えないところではいろんなことが変わっています。それが先日の集まりで話に出た、スタッフの方々の腰痛問題のようなところにしわ寄せとして顕われている、ということでしょう。特別枠が取っ払われたということは今後に向けた布石が打たれたということですから、今後はこれまでのような優遇がなくなっていくだろうことは十分に予想されます。またコイズミ改革からこちら、障害者や高齢者の周辺で、医療も福祉も切り捨てが広がっていることは、それぞれに感じておられることだろうと思います。つい先日も、医療経済学者の中から「今の経済状況で寝たきりの人にこれ以上お金を使うのはいかがなものか」という声が出ていました。いま私たちが直面しているのは、そういう恐ろしい時代です。

じゃぁ、日本の政治が悪いのか、ということになると、これがそう単純な話ではないんですね。この前アルジェリアの人質事件がありましたが、あれなんかもそうですけど、これだけ世界経済が地球規模に拡大したグローバル世界では、日本で起きていることだけが世界で起きていることと無縁・無関係ではあり得ない時代になってしまっています。そこで世界では障害者の周りで何が起こっているか、ということが気になってくるわけで、私はここ数年、そういうことを調べては書くというのが仕事になっているので、ついでにちょっとだけお話しさせてもらうと、まず私たちにとって気になるのは、「パーソン論」という考え方が広がり始めていることだろうと思います。

「パーソン」というのは日本語にすると「人格」なんですけど、ただ動物としてのヒトであるだけではなく誰かが「人格」のある人間として認められるためには、その人には理性とか自己意識とか一定の知的な能力がなければならない、という考え方です。この考え方からいけば、私たちの家族のような重い知的障害のある人は、ぶっちゃけた話、人間として認める必要がないことになってしまうわけです。

一例として、アメリカで2004年にあった事例をご紹介すると、6歳の重症心身障害のあるアシュリーという女の子に手術をして、病気でもないのに子宮と乳房を取ってしまって、さらにホルモンをじゃんじゃん投与して身長が伸びるのを止める、ということがされました。これに「アシュリー療法」という名前をつけて世界中の重症児に広げていこうとしている人たちがいて、実際に少しずつ広がってもいるのですが、彼らが言っているのは、アシュリーのような重症障害児というのはどうせ何も分からないんだから、他の人みたいに尊厳なんて考える必要はないんだ、ということです。つまり、パーソン論なんですね。それよりも介護しやすい身体にしてあげるほうが、本人のためだ、というわけです。

欧米の医療では、重症障害のある人は病気になっても治療せずに死なせたり、病気ですらなくても手をかけて殺してあげるのが本人のためだという話が出てきています。そういうことが起こっている国というのは、本当は国が医療費や福祉の費用を削りたいんじゃないのかと私は個人的には思うんですけど、そうは言わないんですね。そうではなくて、こんなに重い障害を抱えて生きるのは不幸でかわいそうだから「死なせてあげるのが本人のため」だというんですね。慈悲殺、という考え方です。ここでもまた「本人のため」という言い方がされます。何か別のものが「本人のため」と言い換えられることは、こんなふうに実はとても恐ろしいことなんです。

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