『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 5

自分自身のメモとしても、8~11章について、ごく簡単に。


第8章 竹之内裕文「『自然な死』という言説の解体―死すべき定めの意味をもとめて」

内容は、タイトルそのもので、

昨今、大流行の「自然な死」が
「過剰な延命治療」に対置させられて称揚される時に、
そこでは実際に何が語られているか、語られてきたか、を検証しつつ、

医療費抑制への思惑や、特定の状態の生は生きるに値しないなどの個人的な価値観など、
「自然な」という語義の多義牲に応じて、担当医師や家族など
関係者に都合のよい概念が恣意的に援用される危険があることを指摘。

自然と技術、主観と客観といった二元論的な枠組みで考えることには
「死にゆく自然なプロセスを達成するためには、
むしろ適正な医療技術の介入が必要とされる」ことが看過される懸念があると説く。


第9章 西平直「『死の教育』からの問い―デス・エデュケ―ションの中の生命倫理学」

大人が子どもに死を教える、ということについての考察。

私は以下の個所が特に印象的だった。

 しかし「掛け替えのない命を大切にする」ことと同時に、「大自然の中では一つの命はそれほど重要ではない」ということを、どこかで伝えるべきではないか。あるいは、本当は、人類の命だけが特権的に重要なわけではないということ。むしろ人類だけが極端に「自分の命」に執着しすぎている。そして「私が命を持っている」という。自分の命だけが特別に重要なわけではなくて、脈々と流れている「大いなるいのち」に連なっていることが重要である。そうした思想をどう伝えたら良いのか。あるいは、学校教育においては、伝えるべきではないのか。
(p.157)


一方で、頭に浮かぶのは、こういう「いのちの贈りもの教育」が行われていること ↓
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/zouki_ishoku/gaiyo_03.html

それから、「人類の命だけが特権的に重要なわけではない」の個所で、
やっぱりピーター・シンガーが頭に浮かぶのだけれど、その後の話の展開が
ちょうどシンガーの逆方向に向かっているところ、

人間であることを特権にするかわりに「知的能力が高い」という別の特権を作って、
その特権的な自分の生命や優秀さに執着するのではなく、
すべては「脈々と流れる大いなるいのち」に繋がって平ら、という方向に向かい、
そこに執着からの解放を見いだしていこうとするところが、興味深く面白かった。


第11章 松岡秀明「生、死、ブリコラージュ―緩和ケア病棟で看護師が経験する困難への医療人類学からのアプローチ」

ブリコラージュというと、PTの三好春樹さんを思い浮かべる。
三好春樹さんがブリコラージュとしての介護というのをずっと語っていて、
そういうタイトルの雑誌も出していて何度か読んだことがある。

「ブリコラージュとしての介護」というのは私にとっては
ちょうど障害のある子どもの子育て体験そのものにも思えたので
だいたいの意味はその文脈で理解しているのだけれど、

著者の説明によると、

……エンジニアは、計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ仕事ができない。それに対して、ブリコルールは臨機応変な柔軟さで手持ちの材料と道具だけを用いて特定の目的に応じたなにかをつくりあげる……
(p.186)


緩和ケア病棟で看護師が直面する様々な困難を調査によってあぶり出し、
それらを考察することによって、

「エンジニアが終末期ケアの現場を席巻している」一方で、
看護する者は看護される者から学ぶことを通じて、
ブリコラージュとしての看護を身につけていく、
そこにやりがいが見出されている、という観察。

これは、第6章の植物状態患者専用病院での看護師の体験にも
通じていくものがあるような気がする。

看護する者が看護される者から学ぶ、また互いの相互作用の中から学び変わっていく、という体験が、
医療と看護や介護との間でも、医師と患者との間でも、もっと意識されることによって、
「エンジニアが席巻する医療」が、もう少し丁寧なブリコラージュに近づいていく、
ということにならないだろうか。