「近親者の自殺幇助には温情」文化が広がっている(米)

カリフォルニア州
近親者による自殺幇助事件に実刑回避の温情判決が続いている。

① 11年に86歳の退役軍人の男性Jack Koencyに
ヨーグルトに致死量の麻薬Oxycontinを混ぜて手渡したとして、
自殺ほう助の罪に問われていたソーシャル・ワーカーElizabeth Barrettに、
有罪を認めるのと引き換えに1月18日、3年間の保護観察の判決。

Koencyさんはガンで化学療法を受けていたが
ターミナルな病状でもなければ寝たきりでもなかった。

(ここで「寝たきりかどうか」が問題とされていることや
別の場所で「動ける」ことmobile を問題視する記述と並んで、
「寝たきりや自分で動けなくなったら死にたくなるのも当たり前」という
記事を書いた人の無意識を感じる)


② 去年12月10日に、
自分が望む暮らし方ができなくなったら終わりに、と兼ねて交わしていた約束通り、
公園の駐車場に停めた車の後部座席で妻にポリ袋をかぶせて死なせたとして、
逮捕起訴された元消防士のGeorge Taylor(86)に、1月16日、
禁錮2日(逮捕後の拘留期間)+3年間の保護観察の判決。

Taylorさんは、妻と同様にポリ袋をかぶったが死にきれず、
こういうこともあるかと用意していた刃物で首と手首を切ったが、これにも失敗して、
駐車場を出ようとしたところでパーク・レンジャーに発見された。

12月の内に有罪を認めていた。

夫婦は故Kevorkian医師の信奉者だったと言い、
健康問題は抱えていたが、いずれもターミナルな病気ではなかった。


③ 去年、サン・ディエゴ郡で不起訴となった事件。

84歳の病妻が30錠の睡眠薬を混ぜたアップルソースを食べ、
頭に袋をかぶって死ぬまでの間、側にいて手を握っていた夫 San Marcos(88)は
殺人罪を疑われ、検察が判断を下すには5カ月を要したが、最終的に不起訴に。

夫は「妻が死ぬまで手を握っていました。
見捨てられたと感じさせたくなかったんです。
私が愛していることを知ってほしかった」

④ リヴァーサイド郡のBill Bentinck(87)は
ホスピス・ケアを受けていた妻のLinda(77)さんが酸素補給のカテーテルを自ら抜き、
本人が救急車を呼ぶのを拒むまま、意識がなくなるまで手を握っていた。

逮捕・拘留されたものの、立件不能として3日後に釈放。

こうした事例が検察や全米の家族に突きつけるのは次のような問いだと
この記事は書く。

家族が自分の最後の望みを果たして命を終える手伝いをするという、
愛の他には動機が見当たらない人たちに対して、正義はどこにあるだろうか?


ソーシャルワーカーが自殺幇助を行った①のケースでは
検察官はKoencyさんの遺族の望みと同時に「事件の性格」を考慮して
保護観察を提言した、という。

また②のケースでも、捜査により夫の行為に「悪意」がないことが判明した、と
検察官代理が言っており、彼はさらに「殺人ではありません。
殺そうという意図ではなく、彼女の自殺を助けようという意図でした」

CA州自殺幇助法の下で起訴されたケースが裁判になることはめったにないという。

裁判になっても、
罪がないわけではないにせよ、既に愛する人を失った高齢の被告を
有罪とすることについては陪審員の意見が割れることが予測されるため。

「検察官は法の精神を遵奉することは必要だと思いつつ、
この人物を生涯、刑務所に送ることには意味がないと考えるのです」

法を侵して命を終わらせていると明らかなケースでも
陪審員が同情的になって無罪放免するリスクを冒してまで
検事は裁判に持ち込もうとはしない。

そうした判決が出ると「一種の文化的前例」となってしまうので、
むしろこうしたケースでは有罪を認めさせる取引に持ち込むのだと、
スタンフォード法科大学のRobert Weisberg教授。

「極めて重大な犯罪で起訴された人たちがいるという記録は残しつつ、
実際の罰則の判断では人間的な常識を用いるほうがベター」





去年の秋に某所で「障害者の権利」というテーマで
アシュリー事件についてお話しさせてもらった時に、
私はこの問題に触れ、以下のように述べたことがある。

介護者による虐待が既に社会問題となっているのはご承知の通りです。最近、日本の介護業界でも介護者による高齢者への虐待は問題視されて、様々な調査や研究がおこなわれるようになりました。最近、男性介護者も増えてきていますが、虐待加害者となる比率が最も高い介護者は息子です。日本では、息子から母親への虐待が最も多いと言われます。

男性介護者が虐待に走りやすい要因としてよく上げられるのが、男性の家事能力、介護能力の低さだったり、身体的な力の優位性だったりします。もう一つ、男性介護者は介護を「仕事」にしてしまう、ということがよく言われます。目標に向かって頑張り、その目標を達成するという形で働いてきた男性が、介護者となった時に、介護をそれまでの仕事と同じように捉えて、機能を改善させる数値目標を立てて無理矢理に頑張らせたり、介護の成果に自分の達成感を重ねてがむしゃらになったりすることで、支配的な介護となってしまうというのです。私はそこにさらに「介護は本来女の仕事なのに」という意識もあるんじゃないかという気がしています。本来、自分は男だから世話をしてもらえる側のはずなのに、どうして男の自分がこんなことをしなければならないのか、という気持ちがあって、それが本来なら世話してくれるはずなのに自分に世話をさせている相手に向かうのではないか、というふうに思います。

実は、どこの国でも障害を負って自殺幇助を希望する人は圧倒的に女性が多いと言われています。またALSの患者さんは、症状が進行するとやがて呼吸をすることが難しくなるので、どこかの段階で呼吸器をつけて生きるか、付けずに緩和ケアを受けて亡くなるか、非常に厳しい選択を迫られることになります。この時、女性のALS患者さんには付けない選択をして亡くなる人が多いと言われています。これらの事実が一体何を意味しているのか。安易に安楽死や自殺幇助を合法化する前に、このことの意味をしっかり考えるべきではないか、と私は考えます。

英国でもその他の国でも、妻を何年間も介護してきた夫が、妻が死にたいと言うから手伝って死なせた、という事件が増えているような気がします。そういう夫たちが無罪放免されたというニュースを読むたびに、私が思うのは「家族介護は密室である」ということです。英国のガイドラインは、相手への思いやりからすることで、自分が直接的な利益を得るわけでないなら、自殺幇助の証拠はあっても起訴することは公益に当たらないとして無罪放免していますが、それで本当に殺人や慈悲殺と自殺幇助とを区別できるのだろうかという疑問を私はずっと持っています。


(この個所に続いて、ギルダーデール事件を紹介しました)