「行動する親」という呪縛

生活書院のHPで毎月初めにアップされているWeb連載
福井公子さんの「障害のある子の親である私たち――その解き放ちのために」の
4回目、「勇気」「運動会」「ケイタイ」「虐待」の4編を読んだ。


特に1編めの「勇気」から、
ずっと思ってきたことを、私も書きたくて収まらなくなったので。


「勇気」に書かれているのは、
障害のある子どもの親に対して
作業所や施設を作るとか、障害のある子どものために地域で活動したり事業を起こすなど、
「社会的に行動する親であること」を求めるプレッシャーのこと。

福井さんは
グループホームぐらい立ち上げたらどうなんだ」と
親仲間に言われたことがあるという。

私もミュウの幼児期に、行政の人から
「どうして親の会を立ち上げないんですか」と言われたことがある。

別の町の行政の人から、
「親が動かなかったら、施設もサービスもできませんよ」
「今すぐ運動を始めたって、形になるのは10年も先のことですよ」と
すぐにも活動を始めなさい、という趣旨のアドバイスをされたこともある。

そのたびに、私は困惑した。

当時の私は、3日と元気だということのない幼いミュウを抱え、
大学の専任講師の仕事をしながら、心身ともに限界との闘いのような日々を送っていたし、
その後もミュウを施設に入れざるを得なかったことで自責の思いや
そこに至るまでに積み重なった自分自身の気持ちの不安定とで、
自分が生き延びることだけで精いっぱいだった。

天職と思い決めていた職業をあきらめざるを得ないかと悩んでいるような
ぎりぎりの生活状況で、それでも、この上まだ
社会的に行動を起こせと求められるのか……。

私も福井さんのように、
「不平不満ばかり言っていないで、自分でやったら」と叱られているような気分になり、
しばらく気持ちが落ち込んだ。

直接的に「やったら?」と言われないまでも、
社会の矛盾や問題について自分なりの思いを語っていると、相手の人から
行動し何かを成し遂げた親として著名な人の名前や本のタイトルを挙げて
「この人のことを知っているか」と問われる、ということも少なくはなかった。

それもまた私には
「モンクばかり言っていないで行動を起こし何かを成した親だっている。
あなたも行動したらどうか」というメッセージとして届いた。

そのたびに、
「親の会を立ち上げたり、事業を興したりという社会的な活動をできない自分」のことを
私はあれこれと心でいじり回さないではいられなかった。

アドバイスしてくれた人は
それなりに「買って」くれたつもりの激励だったかもしれないし、

実際、熱心にその人と話をしている時には、私自身、
「そのくらい辞さない!」くらいのトーンで熱く語っていたのだろうと思うし、

できることならやりたい、実現できたらいいなぁ、と思い描く「夢」なら
正直、これまでに、いくつもいくつも数え切れないほど心に抱いてきた。

そして、その、どれひとつについても、
私は実現に向けた行動を起こせなかった。

私が「行動できなかった」のは、
本当はただミュウとの生活だけでも限界を超えていたから、というだけではなかった。
心身ともに余裕がなかったから、というだけでもなかった。

私自身に「人と一緒に何かをやる」ための協調性が欠けているから、というのが
たぶん一番大きな要因だったと思う。

そのことに、いつからか私は気付いていたし、
気付いてからは、ずっと「対人関係で能力がない」自分を情けなく感じてきた。

もちろん、言い訳すれば他にもいろいろあるのだけれど、それらをひっくるめて、
要するに「そういうことができた人ほどに人間が優れていないから、私にはできなかった」と
いつからか考えるようになった。

だから、人から「行動しないの?」メッセージを受けるたびに
自分の「人格的な欠陥」のことをぐずぐずと弄くりまわしてきた。

そして、そういう時、同時に、

障害のある子どもの親にだって、いろんな人がいるはずなのにな、
その中には人をまとめてリーダーとして引っ張るのが得意な人もいれば
人と一緒に何かをやることが苦手なタイプだっていて当たり前なのにな…と
小さな、本当に小さな、誰にも聞こえない声で、こっそりとつぶやいてきた。

ずいぶん長いこと、そうやってイジイジと生きてきて、
さすがに私も、ちょっとだけ強い人になった。

だから、最近の私は、思っている。

簡単に言えば、
私は、そういうことに向いていない、ということに過ぎないんだ……って。

いいじゃない。その代わりに
自分に向いていることは、私なりに懸命にやってきたんだから――。

そして今は、そこで、さらに
「ちょっと待ってよ」と考えるようになった。

ちょっと待ってよ。

障害のある子どもの親になったからといって、
何かに懸命になって生きなければならないと感じたり、

自分や誰かに対して、それを証明して見せられなければ
社会に対してものを言う「資格」がないと感じたりって、
それって、そもそもヘンじゃない――?


福井公子さんの「勇気」から。

たとえば、若い親たちが「保育所が少ない、子育て支援が不十分だ」と訴えた時、社会の人は「不平ばかり言ってないで、自分たちで保育所を創ったらどうなんだ」と言うでしょうか。……(中略)……

「それであなたの息子さんに良い支援が届かなかったら、どうなんだ」と言われるかもしれません。そうだとしても、「それは私の責任ではない」と言いたい。つまり、私たち親が「それは社会の役割だ」。そう言い切きる勇気がなかったのではないか。……(以下略)

           ―――――

ずっと前に初めて『私は私らしい障害児の親でいい』という本を書いた時に、
「あなたは、モノは言えても行動は起こせない人なのではないか」と
ある人に言われたことがあった。

それ以来、
障害のある子どもの親として社会で行動したり何事かを成したわけでもない私には
障害のある子どもの親という立場でものを書く「資格」などないのでは……という
心もとなさのようなものが、どこかに居座っている。

その心もとなさに対しては
「いや、まだまだ親について語られていないこと、語られるべきことは沢山ある。
それなら、誰にだって、それを語る『資格』はあるはずだ」と
きっぱりと反論する声を、最近ようやく獲得できてきたところ。

福井公子さんは私から見れば、親の会のリーダーとして活躍してこられて、
「行動し、多くを成し遂げた」人、立派に「資格」をお持ちの方でもあるけれど、

福井さんの「勇気」という文章と出会ったおかげで、
私も自分の中にくすぶり続けていた思いをやっと
思い切って表現することができ、このエントリーになった。

それは、福井さんの「資格」とは無関係に、
福井さんが書かれた文章そのものの力が起こしてくれたことだ。

やはり表現することは、それ自体が「行動」なのだと、
改めて確認させてもらった気がする。

それに、表現することだって、
本当は相当な「勇気」を奮い起さなければできないことだったりもする。

福井さん、いつも
表現する「勇気」を、ありがとうございます。