NY法科大学の終末期医療シンポめぐる論争 3

前のエントリーからの続きです。


ビル・ピースが11月17日に書いたエントリーは以下。

Conference Controversy
Bad Cripple, November 17, 2012/11/27


ピースはこのシンポについて知った時に、
まずスピーカーのほぼ全員にC&Cとつながりがあることを考えると同時に、
知り合いもいることだし生命倫理と障害者の溝問題は目下の関心事だから行こうかと考えたけれど、
偏向した内容のシンポなんて、いくらでもあることだし、
いくつかの理由から辞めたのだという。

ただ、Stephen Drakeの激烈な口調の行き過ぎはともかく、
Drakeが指摘しているのとまったく同じ点が気になったという。

書かれている問題点とは、おおむね以下。

C&Cとの繋がりがあるスピーカーは明らかにすべきだったと思うし、

特に以下の3点によって
障害者の権利という視点を代表するスピーカーが欠けていたことは問題。

① もし自分が出かけて行って、一人で反論の声を挙げていたとしても
ヒステリックな障害者という世間のステレオタイプを演じることにしかならない。

② 「特別な人々、特別な問題」というタイトルはあり得ないし、
OuelletteとNewmannがこのタイトルに強く反対しなかったのも驚き。
ここでは過去20年間の障害者差別をめぐる議論がまるきり意にも介されていない。

生命倫理学と障害者の権利の間の緊張関係はよく知られているし
私自身もアシュリー事件やクリストファー・リーヴへの批判によって
その溝を広げたのかもしれないけれど、

このカンファのあり方そのものが、
なぜ障害学者や障害者運動の活動家らが生命倫理学を批判しなればならないかを物語っている。

ウ―レットは生命倫理学者/法学者であり、障害者アドボケイトではなく、
障害者の権利を代理するスピーカーはここには一切存在しない。

議題の立て方も絶望的なほど偏向しており、
力の不均衡があからさまで、最初から障害者側は防衛する側に置かれている。

偏見と無知だらけの議論によって、
障害に対するバイアスは障害者の命を現に脅かしているのである。
仮に考えてみよう、というような呑気な話ではないのだ。
障害者がそうして差別されてきた歴史は既に多くの文献が証明している。

で、Peaceがナイーブかもしれないけど、と言いながら
最後に提案しているのは、

We need to get people from Compassion and Choices and Not Dead Yet, lock them in a room and not let them out until they learn to show mutual respect for each other. We need to do the same with bioethicists like Peter Singer and Jeff McMahan and disability studies scholars such as Anita Silvers and Eva Kittay. I have always felt one can learn more from others who you strenuously disagree with. Such an encounter can force one to hone their views and writing.

C&C と NDYの関係者を一つの部屋に閉じ込めて、互いに尊重し合えるようになるまで部屋から出さない、ということをしなければ。

同じように、Peter Singer と Jeff McMahan のような生命倫理学者と、Anita Silvers と Eva Kittay のような障害学者も一部屋に閉じ込めるべき。

自分がどうしても同意できない相手からこそ、学ぶことが多いのだと私は常に感じてきた。そうした出会いにこそ、意見も書きものも研ぎ澄まされていく可能性があるはずだ。


Peaceは、今
ウ―レットのBioethics and Disabilityの書評を書いているとのこと。

ウ―レットのBioethics and Disabilityに関するエントリーは
以下にリンク一覧があります ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65111447.html


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一連の議論を読んで、私がいちばん「象徴的だなぁ」と感じたのは、
ドレイクの10月のNDYのブログコメント欄での「朝食をご馳走するから」という
ポウプの善意に滲んでいる、とても無邪気な傲慢。

それで思い出したのが、7月にピースがHCRに
「死の自己決定を教唆された」という体験エッセイを発表した時に、

それを受けてドレイクが
「体験そのものは障害者には珍しいものではないが
生命倫理学ジャーナルにそれが載ったことが大事件なのだ。
生命倫理学は障害者を議論から締め出してきたのだから」と書いたエントリーのこと ↓



あくまでもアカデミズムの高みに留まって歩み寄ろうとしない生命倫理学の目線の高さと、
対等の議論の機会を許されず、声を届かせられずに苛立つ当事者――。

それが、あのポウプの
「私はスピーカーの一人だけど、聞きに来るんだったら次の日に朝食をご馳走するから、
発言のどこに問題があったか聞かせてくれないかな」という善意のコメントであり、

さらに彼のブログ・エントリーでの
NDYの存在はベタンコート事件の法廷でも、このシンポの会場周辺でも、
人々の意識を障害者の視点に向けるのに役立ったと「評価」する眼差しにも通じている気がする。

それが対等な議論の相手としてではなく、あくまでも抗議者としての相手に対して
高いところからの善意で「聞いてあげる」「認めてあげる」姿勢であることに
まったく気付かないまま――。