20周年記念式典で起こった「ありえないこと」

娘がお世話になっている療育園は今年で創設20周年を迎え、
今日、記念式典があった。

関係者のあいさつや祝辞があり、その後、
子どもたちの20年間をたどるスライドがあって、

(みんな小さくて可愛くて笑顔がキラキラしていて、スタッフもまだまだ若くて……。
一枚ごとにどよめき笑いながら、通り過ぎた年月を振り返って、それぞれ感慨に浸りました)

最後に、初代園長である前園長が「20年の歩み」を話すために登壇。

一小児科医としてリハセンターに赴任し、やがて重心施設が開設されると、
心施設の経験もないまま初代園長となり、慣れぬことに苦労しながらも模索と勉強を重ねつつ、
医師としては医療を第一に考えてやっていった……などなどが語られている頃、

私の隣では、非日常的な雰囲気にテンションが上がり気味だったミュウが
遠くに座っているイケメンのドクターに手を振り上げて大声で呼びかけたりし始めたので、
私は彼女をなだめたり、ペンと紙を持たせてみたり、つい話から注意が逸れてしまった。

そこへ、ふと耳に飛び込んできたのは
「保護者の不満が噴出した」「私は針のむしろに座っている気分だった」という話の断片。

え……? 

もしかして……あの時の、こと……?

10年以上も前に(今日の前園長の話では平成11年)、私は療育園で
「師長&園長」vs「保護者一人」という激しいバトルを闘ったことがある。

そのことは、以下のエントリーに少し書いているし、
所長室の灰皿(2011/4/20)

ちょうど10年前に書いた『海のいる風景』という本にも
その時のことを書いた「闘い」という章がある。


でも、それは、こんな祝典の場で持ち出すような話ではないはずで……?

しかし、どうやら前園長は、この晴れの日に式典の演台から、
本当に「あの時」のことを詳細に語ろうとしているらしい。

その事件で前園長を「針のむしろ」に座らせた当の「保護者」としては、
にわかに落ち着かない気分となり、

この話、いったいどこへ向かって行くんだろう……。

ちょっと不安になりつつ聞いていると、
その後の前園長の話はおおむね以下のように続いていった。

それまで私は一小児科医として医療のことには尽力してきたけれど
現場のことは看護科と育成課に任せきりにしていた。

保護者から厳しいお叱りを受けて、
私も気が短いから「逆ギレする園長だ」と言われたこともあったけれど、

保護者と話し合い、保護者が望んでいることを理解し、保護者から学ぼうと努めながら、
自分なりに療育委員会その他各種委員会の設置、個人懇談や連絡ノートの創設、
職員研修を保護者にも開放して一緒に学ぶ場を作る、
その研修で年に一度保護者に話してもらい
保護者の言葉から直接職員が学ぶ機会とするなど、
様々な改革を実行した。

十分だったとは思わないが、
保護者から一定のご理解を得ることができたと思っている。

そうして、あの時に自分は一小児科医から園長になれたのだと思う。

療育園の現在の理念も、その時に私が作ったもの。

我が療育園の理念には「保護者とともに療育の向上に努めます」という言葉が入っている。
これは日本の多くの重心施設の中でも珍しいのではないかと思うが、
私は理念の中で、ここの「保護者とともに」の部分が一番大切な個所だと考えている。

保護者との信頼関係なくして、よい療育はあり得ない。

あの時のことは、私の長い療育園人生の中で
どうしても忘れることのできない、最も大きな出来事。

そのおかげで今の療育園がある。
感謝している。

このことは、今日ここにいる若い職員にも
聞いておいてほしい。


途中から、
ありえないことが目の前で起こっている……という思いで聞いた。

園長を退かれる時に挨拶のメールを入れたら、
「あの時は苦しんだけれど、あの時に自分は一小児科医から園長になれた。
あなたのことは恩人だと思っている」と返事をもらったことはある。

だけど、それは前園長と私の間でのこと。
こんな場所で、こんなふうに公言されることとは、ぜんぜん違う。

なんという人なのだ……と、ほとんど呆然とした。

私はなんと稀有な出会いに恵まれたことだろう、
私はなんと幸せな人なのだろう……と、

10年以上前の所長の言葉を今にして知らされた去年4月と同じことを
繰り返し、繰り返し、思った。


式典が終わると、
あのバトルの時に影に日向に私と共闘してくれた当時のミュウの主治医が来てくれた。

まだ心を揺さぶられていたので、よく覚えていないけど、
「前園長はよくあそこまで言われた。あの時のおかあさんのエネルギーがここまで実った」
という意味のことを言ってくださったような記憶がある。

当時のことを知っている保護者も数人、
「すごい話だった。感動して涙が出た」
「あれだけの立場のある人が、あんなに率直に。前園長、すごい」
「spitzibaraさん、本当に頑張ったよね」などと口々に言ってくれた。


でも、そんな思いでみんなが傷つきながら年月をかけて築き上げてきたものも、
失われるのはあっという間だったりする。

そんな中で、改めて信頼関係を築こうとする新体制への働きかけには、
当時のことを何も知らない保護者から、最近は非難を浴びせられていたりもする。

余計なことをするな、園にはただ感謝していろ、
世話になっているのに批判がましいことを言うな、
スタッフは大変なのに分かっているのか、などなど。

今の療育園だって、何もしないでできたわけじゃない――。

それに、裏で不平を鳴らし散々な批判をしながら、
面と向かってはただ「ありがとうございます」「お世話になります」と頭を下げたり
我が子だけを守り、我が子だけはよくしてもらおうと立ちまわったりすることは、
園と保護者の間に、決して本当の信頼関係など作らない――。

非難を受けるたび、そう言いたい思いがこみ上げるけれど、
10年以上も前からの複雑な事情をかみ砕いて説明することの不可能と、
自分のしてきたことを自分で語ることへの抵抗感と
そして何よりも、同じ立場の人の無理解からの傷つきで、
何も言えず、聞き流してきた。

黙って、私なりに新体制に働きかけながら、
また時間をかけてスタッフからも保護者からも理解を得ていくしかない、と考えてきた。

それでも、時に
もともと私が間違っているのだろうか、私は無用に人を傷つけているだけではないのか、と
もの思いにとらわれて苦しむことだって、ないわけではない。

前園長は現在は副所長なので、
私が療育園の新体制に対してそんな小さな働きかけを続けていることは知っているし、
そこで私が訴えていること、やろうとしていることも理解してもらっているけれど、
「あの時」のことがあるからこそ、今度は副所長として上から介入することは自分はしない、
そういうことなのだろうと、私なりに前園長の姿勢を理解してきた。

まさか
リハセンターにお世話になってきた24年間で私が一番手ひどく傷つけたに違いない、その人が、

「ここにいる若い職員」に向けて、今の療育園は何もなくしてできたわけじゃないのだと、
保護者の声を聞き、保護者から学べと、こんな形でメッセージを送ってくれるなんて……。

こんなことが本当に人生に起こって、いいのだろうか……。

それほど、「ありえない」ことが起こった日だった。
私にとって、生涯忘れられない日になった。


そして1日経った今日、
このブログは訪問者カウントが30万を超えました。

みなさん、本当にありがとう。