「野の花ホスピスだより」を読む



四月下旬の夜中、ナースコールが鳴る。当直ナースが尿器で採尿すると「オシメノヒト、ナンニン? ジブンデタベレンヒト、ナンニン?」と東さん。「なんでそんなこと聞く?」と当直ナースは返した。
自分でおしっこの始末もできず、自分で食べられず、すべて人の世話になるのはプライドが許さん、死にたい、と東さんは答えた。ナースは優しい声で言った。
「東さんのプライドも大切にしたいけど、家族や私たちにとって、オシメした東さんでも一日でも長く生きてほしい」
東さん、突然泣き出した。「アリガトウ、イエニカエッテミタイ」
翌朝の申し送りでこの話を知った。医者のぼくの前では起こりえない出来事。
意志は変わる。確固とした意志さえ変わる。考えてみた。おそらく「本人の意志」は自分の所有物と考えやすいが、本来、他の帰属する部分が多い、のではないか。
(p.55)


「医者のぼくの前では起こり得ない」ことがあり、そういうことは、
直接その人の体に触れて日々のケアを担っている人の前でだけ起こっているということに、

どれほどの医師や生命倫理学者やその他、
障害や病気のある人についてなにごとかを論じたり決める立場にいる人たちが
気づいてくれているのだろう。

どんなに専門的な知識があっても、
おのれの体で直接に体験してみなければ分からないこと、
「それについて知っている」のではなく「それそのものを体験として知っている」のでなければ
分からないこと、知りようのないこと、というものがあるのに、

「死にたい」「死んでほしい」をめぐっても、
「分かっている」「分かっていない」をめぐっても、
すれ違ったまま埋めようのない距離は、
結局はそこのところから生じていると思うのに、

強いものが気付かない限り「聞く耳」もなく、
弱いものの言葉も訴えも届かない。


「副作用で抗がん剤、あきらめました。死ぬ覚悟はあります。でも再発したら、と悩むです」
 矛盾する心は誰にも生まれる。その心をくまねばなるまい。
「再発を抑える方法、考えましょう」
「ええ」顔に光が差した。
 あきらめを強いてはいけないなぁ、とこのごろ思う。患者さんの気持ちをくみ続ける、至難のわざだけど、これしかないのだろう。
(p.86)


 臨床で働くと、たくさんのジレンマに出会う。本人の意志か家族の意志か、の中に生まれるジレンマ。在宅か施設かの中でのジレンマ。言う言わないのジレンマ。放ったらかし、かかわり過ぎのジレンマ。なくてさみしい、あってうるさい家族、の中でのジレンマ。生きたい、死にたい、の中でのジレンマ、ジレンマ、ジレンマ。
 医療職にとって大切なことは、ジレンマに出会った時、ひと呼吸して「ああ今ここに、新鮮な、ジレンマ、あるよなあ」と思うことだろうか。すぐに結論は出さない。逃げない。するとジレンマは、思いがけないところから、融け出していくことがある。
(p.163-164)


(自分も進行がんを抱え、認知症の妻を抱え、メロンを作りながら自宅で暮らしている九十歳の患者さんのところに往診に行って)
「今一番困っていることは?」と聞いてみた。「作業衣のズボンつりが切れて、ずるですわ」
なるほど。
病気はどこかへ消えていく。参った。
(p.205-206)


ずっと前、ミュウが腸ねん転の手術後に、
痛み止めの座薬は入れてもらえないわ、点滴が漏れたら入れる技術はないわ、
かといって中心静脈にラインを取る決断もないわ、傷は化膿するわ、
けいれんが出ていると訴えても外科スタッフには意味が通じず放置されるわ、

痛み止めを入れてやってほしいと訴えると頭ごなしに怒鳴りつけられたり、
言葉途中でハエでも追い払うような仕草で棄て去っていかれたりしながら、
「医療の無理解と連日24時間ずっと闘い続けている」という気分だった時に、
病棟師長さんがベッドサイドにきて、これとまったく同じ質問をされたことがあった。

「お母さん、いま一番困っていることは、なに?」

困っていること? なんだろう……と考えた次の瞬間、
口から勝手にこぼれ出たのは、

「この子を私は守りきってやることができない……ということ」

師長さんはそれきり黙り、
そのままいなくなった。


 大切なことは何だろう。関心、だと思う。関心が消えると道は閉じる。関心が湧くと道は開く。
(p.218)