脳損傷の昏睡は終末期の意識喪失とは別:臓器提供の勧誘は自制を

18日のエントリーで NDY の Drake らが言及していた
Fins医師の論文を読みました。

タイトルは「重症脳損傷と臓器提供の勧誘:節制の呼びかけ」
今年3月に米国医師会の倫理ジャーナルに掲載されたものです。

Severe Brain Injury and Organ Solicitation: A Call for Temperance
Joseph J. Fins, MD
Virtual Mentor, AMA Journal of Ethics,
March 2012, volume 14, Number 3:221-226


非常に重大な告発と提言だと思います。

本当は全文翻訳したいのですが、
とりあえず概要を以下に。(……と言いつつ、けっこう訳してしまいました)

私は地元の臓器獲得組織(OPO)の理事を数年前に辞任した。
重症脳損傷の患者からの臓器摘出の状況が納得できなかったからだ。

もともと理事になったくらいだから臓器移植そのものは支持しているが、
臓器を必要とする患者の命を救うことだけが善ではない。
意識障害の患者のことを考える善もあるが、
臓器移植界隈の方針によってそうした患者の利益は危うくなっている。

(話の混乱を避けるため、Fins医師はここで昏睡、脳死植物状態、最少意識状態を
きちんと定義していますが、省略します)

連邦政府の規定は、
ドナー候補者の死が差し迫ってきたらOPOに届けるよう求めているが、
生命維持の差し控えや中止が問題となる患者の場合は、
その決定が死が差し迫った状態に直結するので、
その決断が検討されている段階から臓器刈り取りの可能性ありとしてOPOに連絡がいく。

OPOの理事として私が承服できなかったのは、
こうした重症の脳損傷の患者があたかももう死ぬことが確実に決まっているかのように捉えられ、
身体も脳もまだ生きている内から臓器ドナーと目されてしまうことだった。

大学の医療センターの倫理コンサルタントとしての立場で
OPOの職員たちがICUの中に居座って(hover)いつでも仕事にかかろうと待ち構えているのを目にもしたし、

熱心なOPO職員の中には、
もう私たちのものですからもらっていきますよ、といった表現すらする者もいた。

hoverという表現を敢えて用いたのは
ヘリコプターがホバリングするように付きまとわれた、というのが
Weill Cornell Medical Collegeに検査にやってきた意識障害のある患者40人の
家族や代理人にインタビューを行った結果、多くの家族の印象だったからだ。

よくあるのは、
まだ治療の初期、患者がICUにいるうちから
代理人や家族に接触し、臓器提供を持ちかける、という場面だ。

患者が助かって、程度はさまざまながら回復した後になっても、これらの家族は
OPO職員のふるまいをハゲタカのよう(predatory behavior)だったと言い嫌悪している。

多くの家族は、彼らは臓器を獲得しようと必死のあまり、
病人はもう予後が決まっているかのように言いなした、という。

死は避けられませんよ、
呼吸器は中止すべきです、
臓器は使える人にあげるべきです、と。

でも、助かった人たちの家族は当時を振り返って、
何故あの人たちは断言できたのだろう、といぶかる。
医学的にも、たぶん倫理的にも間違った行為だったはずなのに、
どうしてあんなことができるんだろう、と。

程度はさまざまにせよ回復した人も多数いるのに、
またNicholas Christakisの研究でも診断は間違うことが多いと分かっているのに、
あの人たちは、どうしてあんなふうに「死にます」と断言できたんだろう、と。

脳損傷がこれほど特殊な問題をはらんでいるのは
脳死概念そのものが、臓器移植医療の出現で臓器獲得のニーズが出てきたために作られた
歴史的、社会的背景があるため。

世界初のバーナード移植とビーチャーによるハーバード基準その他が1968年にできたのは
決して偶然ではないし、ビーチャー自身の功利主義的発言からも、既にその段階で
意識喪失状態と意識のある人を救う義務とが繋げられていたことを伺わせる。

しかし、この2者を繋げることには問題がある。

意識喪失そのものは脳損傷では症状として起こっていることなのに、
一般の終末期では意識喪失が死の前触れとして知られているために
脳損傷の昏睡状態でも代理人DNR指定をしてしまう。

が、脳損傷の患者での昏睡はむしろ
回復が始まる最初の段階に過ぎない可能性がある。

そうした症例で臓器摘出を早まると、
患者が回復して意識があることを表出できるようになる前に摘出が行われてしまう可能性がある。

もちろん昏睡状態にある患者がすべて回復するわけではないが、
昏睡は必ずしも死の前触れとは限らないし、
いまだ実験段階とはいえ脳画像や脳波を通じた研究も続いており、

このような患者の予後に不透明な部分が残る以上、多くのケースでは
治療を差し控えたり中止することを決める前に、待って様子をみて、
患者が回復し意識があることを表明できるチャンスを作るべきでは。

そこで、控え目な提案をしたい。
臓器提供を勧めるに当たって、時を待ってみる、という自制をしてはどうか。

回復にはリズム、タイミングというものがある。

その後どっちに向かうか分からないのに回復のプロセスを途中で止めてしまうのは
ベートーベンの第9で第4楽章があると知らず、コーラスが始まる前に演奏をやめてしまうようなものだ。

アウトカムが不明なら、
臓器提供を勧めるのは一時見合わせモラトリアムということに。

そして臨床医には患者が昏睡状態からどちらに向かうかを見極めるよう勧めたい。

それがわかって初めて、予後が見えてくる。
それで初めて家族も、生命維持について決断するための情報が得られるはずだ。

待つことは家族や代理人にとっては辛く苦しいだろうが、
それだけ意志決定プロセスでの説明や話し合いの機会も増えて、
そのプロセスが患者と家族中心のものとなる。

そういうプロセスを経た上での臓器提供の決断であれば、
誘導されたものでも強要されたものでもないインフォームされた愛他行為として
ドナーの側にとってもレシピエントの側にとっても明明白白となり、
臓器提供にまつわる罪悪感が軽減される。

何よりも、マーケットがドナー側を侵食している昨今、
我々はそうしたスタンダードの確立に向けて努力しなければならない。



ここで指摘されている
「外見的には同じことが起こっているように見えても、
脳損傷の患者の昏睡は、終末期の患者が意識を喪失するのとは別もの。
終末期の患者では死の前触れだが、脳損傷の患者では回復の第一段階の可能性がある」
非常に重要な指摘と思います。

そして、この論文について生命倫理学者たちは口を開かず黙殺している、と
Not Dead Yetの Comelam と Drake は冒頭でリンクした記事で批判していたのでした。