障害者の人権を侵害する医療への痛烈な批判: NDRNの報告書「まえがき」

“アシュリー療法”を巡るシアトルこども病院とWPASの合意の期限にあたる5月に
WPAS(現DRW)が加盟する全国的障害者人権擁護ネットワーク 
National Disability Rights Networkが出した報告書について
6月20日の以下のエントリーで取り上げました。



現在、半分くらいまで読んだところなのですが、

まず冒頭の「まえがき」にあたるNDRNのトップの書簡に
強く胸を揺さぶられたので、

以下に全文を仮訳してみました。


今この時にも米国のどこかで親や代理人が医師と椅子を並べて、ターミナルでもない人の生命維持治療の差し控えや、子どもの生殖器や乳房芽の切除や、ホルモン療法による成長抑制について相談している。後者は、この療法を受けた最初の子どもとされる女児の名前にちなんでアシュリー療法と一般に呼ばれているが、我々の社会が障害のある人々を価値なきものとみなし、その人権を侵害してきた数々の出来事のつらなりの先に、最も新しく追加された、最も恥ずべき事例である。

こうした相談が行われるのは、そこで問題にされている人がほとんど価値のない存在だとみなされているからに他ならない。彼らはただ障害を持って生まれたというだけの理由で、十全な人間ではないものとみなされ、自由やプライバシーの権利も、望まない侵害を受けない権利(right to be left alone)からも無縁とされてしまうのだ。

医師と親とが一緒になって、意識状態やQOLについての想定だけを根拠に、子どもから臓器を摘出し成長を抑制することを決めてしまうなど、考えただけでもショッキングで醜悪である。障害者がどれほど「お荷物」として想定されているか、驚くほどくっきりと描き出している事例がオレゴンにある。出生前診断が見逃したためにダウン症候群の子どもが生まれたと訴える両親に、陪審員が300万ドルの支払いを認めたのだ。その子どもの出生は「ロングフル・バース」と称された。こんなことが米国で起こり、今も起こっているという現実は、米国人として我々が持っているはずのコアな価値観に照らせば、汚辱である。それが自分で声を上げることのできない人たちの身に起こっているのだから、なおのこと汚辱である。こうした野蛮な実態に光を当て、それを支持しつつ21世紀を進もうとする医療界を批判すべく、NDRNは当報告書“Devaluing People with Disabilities: Medical Procedures that Violate Civil Rights. 障害のある人への軽視:市民権を侵害する医療”を刊行した

これまで30年以上に渡って障害者の人権を専門とする弁護士として、またそのアドボケイトとして活動してくる中で、私はもう障害者に対するありとあらゆる形態の差別と有害行為を見てきたと思うことも多いが、残念なことに、その私ですら驚き衝撃をうけるほどの行いを人間はさらにやってのける。

多くの人がアシュリー療法は医療ではなく優生思想だと考える一方で、医療界では医師も医療倫理学者も病院側も、そして時には障害のある子どもの親までもが、この子たちは知的障害が重く理解する能力がないから、何の害もなされていないと主張する。そうして市民権を侵害する医療決定を正当化してしまうのである。

人は誰も、市民権と人権と生まれながらにしての尊厳と共にこの世に生を受ける。障害があっても、その事実は変わらない。それなのに、障害のある人は日々、完全な一人の人間であると認めてもらうための闘いを強いられている。

なるほど我々は米国障害者法(ADA)など、多くのすばらしい進展を遂げてきた。しかし、アシュリー療法などが容認されてしまう時、いや、提唱されてしまうだけでも、それは障害のある人々には何の価値も権利も尊厳もない世界に向かって傾斜する、すべり坂である

Curt Decker
Executive Director
National Disability Rights Network
(ゴチックはspitzibara)


言及されているオレゴンのケースは、今年3月の出来事。
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