ツイッターをやめました

「施設解体」がしきりに言われている頃だったと記憶している。

ある男性と話をしている時に、
「施設解体のみが善だ」といった話の流れに違和感を覚えたので、

「でも、個々の親にとっては、自分たち親子が暮らしている地域に
現に今すぐ自分たち親子が利用できる制度やサービスがなければ、
または自分が死んだ後に子どもの安全な生活が保証される受け皿がなければ、
日本のどこかにどんなに優れた実践があったとしても
それは存在しないのと同じなんです」と言ったら、

相手が激昂されたことがあった。

立ちあがり、本棚に寄ると、
そこから次々に本をとりだしては

「今はもう時代が違うんだ。
アンタがそれを知らないだけなんだよっ。
ほら、こんなことをやっているところも、
こんなことをやっているところだって今はちゃんとあるんだよっ」

激しい口調で言いながら、立ったまま、
私の目の前のテーブルに次々に本が投げつけられていった。

読んだことのある本もあったし、
タイトルや内容くらいは知っている本もあった。

その人は、向かい側の席に戻ってくると、
「だいたい、親はすぐに、親が死んだら、死んだら、と言うけど、
そんなことを言って実際に死んだ親なんか、いないんだよっ」

いますよ。親だって死にますよ――。

そう思ったけど、言えなかった。

私が専門家や父親だったら、この人はこんな態度は取らないんだろうな……と
ぼんやり考えながら、目の前の本を見ていた。

投げつけられて私の前に乱雑に積まれている本は、
身体障害者または知的障害者の周辺での実践について書かれた本ばかりで、

その中には、
ミュウのような重症重複障害のある人の生活を支える話は1冊もなかった。


       ――――――――


昨日、突然、ツイッターをやめました。

ここしばらく、ずっとやめようかと考えてはいたのですが、
昨日、ついに限界がきてしまいました。

多くの方と交流させていただき、たくさん学ばせていただき、
「その節」にも「あの節」にも、言葉で尽くせないほどにお世話にもなったり
またご迷惑をおかけした方々も多々あったのに

だから、やめるならやめるで
それぞれの方にそれぞれに言いたいお礼もお詫びも沢山あったのに、

それもせずに突然にアカウントを削除して大変申し訳なく思っております。
本当にありがとうございました。それから、いろいろ、ごめんなさい。


「アシュリー事件」という本を書いたこと、
その直後にツイッターを始めたことの2つによって
私は自分でその覚悟が十分に決まっていない内に
障害者運動の方々との距離を急速に縮めてしまうことになりました。

そういう方々が障害者の権利や自立生活を勝ち取ってこられた
運動や闘いには深い敬意を持っていますが、

そういう方々のナマの言葉と思いがけない近さで接することは
私にとっては上で書いた日の体験が何度も繰り返されるに等しいものがありました。

あの日、私はあの後なにも語れなくなり、黙りました。

あの時に投げつけられた本の中の1冊で、
福岡寿さんという人が以下のような発言をしておられます。

……自分は、親御さんから「自分たちは福岡さんのホームヘルプや支援センターやグループホーム施策のために、親をやっているんじゃない」と言われたことがあります。だから「施策のための本人」なのか「本人のための施策」なのかを混同してしまうとダメだと思うんです。
……(中略)ホントに変わるためには、「この方を何とか支援しなくては」「この家族を何とかしなくては」という生のリアリティが必要なんですね。


さっき、これを書くために改めてざっと目を通してみて、
ああ、でも、この人たちは「親御さん」と言ってくださるんだな、ということ、
親も支援の対象に含める眼差しを持ってくださっていたのだな、ということに、
改めて救われる気持ちがします。

アシュリー事件で親と障害者運動の対立の構図が利用されていることに気を揉んで以来、
ずっと「でも対立ではないはずだ」と、考え続けようとしてきたし、

だから、そのために誹謗中傷を受けることは承知の上で、
娘の施設やその周辺の人に対しても、ことあるごとにそれを言ってきたし、

どちらに向いても、どんな議論の中でも、
そこに立ち続け丁寧に説明し続けようと自分なりに努力してきたつもりだったけれど、

今は、あの日、投げつけられた本を前に座っていた時とまったく同じ気分です。
何かを語りかけてみようとする気力が完全に萎えてしまいました。

もちろん、これだけだという単純な話ではなく、少しずつ積み重ねられてきた思いですが、
「支援者」の方による「麻薬」「常習化」という言葉の選択に、トドメを刺されました。

根本解決でなければレスパイトは麻薬で常習化して施設入所になるからダメだと言うなら、
その根本解決まで現に今も目の前の現実を生きている介護者に一体どうしろというのか。

……というよりも何よりもメゲるのは、
「支援者」を名乗る人が「麻薬」「常習化」という言葉で親に向ける断罪の視線と、そのゴーマンさ。

その人がどんなに優れた仕事をしてきた人なのか私は知らないけれど、
なぜ親が支援者から、こんな断罪の視線を向けられなければならないのか。

地域移行や自立生活が実現すれば問題は解決するのだから、
それに逆行する家族介護を肯定する介護者支援はダメだ、という主張も同じく、

では現に今も目の前の現実に生きあぐねて心身の健康を害している介護者は
それまでどうしろ、と?

家族からの暴力を受けている介護者がいるというデータがあるというだけの話に、
「でも本人の方がより被害者じゃないか」と反射的に反応されることも同じ。

家族や介護者が加害者でしかありえなかった事実はあるでしょう。

でもそれは家族や介護者個々人の悪意だったのか。
彼らがまさに支援を必要とするのに得られない状況が
加害者にならざるを得ないところへ親や家族や介護者を負い詰めていたのではないのか。


あなたがたの言う社会モデルが
親や介護者だけは個人モデルに置き去りにした社会モデルであり、

あなたがたの言う社会的包摂が
親と介護者だけは除外した上での包摂でしかないのなら、

共に考えることは、私にはできない。