最近のツイートから、「重症重複障害」と「支援」について

最近のツイートから、「重症重複障害」と「支援」について


ウチの娘のけいれんは、眠っている間しか出ないのと小発作なので一緒に寝ていないと気付けず、昔から見たことがあるのは親(特に母親)だけで。昔の主治医とは信頼関係が良かったので、丸ごと信じてもらって、常に相談しつつ治療できたのですが、

成人して再発後はスタッフも変わり、薬の増量だけにものすごいエネルギーを要しました。いろいろあった挙句、今は担当看護師さんと協働できるようになり、親の観察を元に対応してもらえていますが、ここまでがしんどかったです。

ミュウは重症重複だから今まさにけいれんが起きていても訴えるすべを持たないし、「昨夜発作があった」と伝えることもできず、親以外には代弁者がいない。 今は医療機関でもある施設だから、親がしつこく代弁してなんとかなっているけど、そこのところにはものすごく複雑な問題がいろいろある。

「施設か自立生活か」という二者択一的な議論を聞くたびに、そのことを思って、そう簡単に割り切れないものが沢山あるような気がして悩ましい。

ついでに言うと「施設職員は志も問題意識も低く、個々のニーズや個性に向ける意識も感性も低い。地域で自立生活を支える支援者はその逆」という前提も議論によっては、ある気がするのだけど、前者にも後者にも志も意識も高く感性の良い人はいるし、どちらにも一定数しかいないんでは、とも。


私は重症障害のある子どもを持つ親として、「支援」という雑誌について、ものすごく偏った読み方をしているのだろうと思うけど、「身障者と介助」を中心に 考えられてきたことと、それではうまく行かない「知的障害者と支援」との隙間を埋めていこうとする試みが丁寧に行われることによって、そこから

さらにその先の「重症重複障害者と介護+支援(ということでいいのかどうかは別にして)」という、これまであまり視野に入ってこなかった人たちとその周辺にまで、広がっていく(何が?)と嬉しい……などと、考えたりしている。

私が「アシュリー事件」の中で「親は一番の敵」という言葉に触れたのは、重症重複障害のある子どもを持つ親としての私自身が敵にもなり得る自分とどう向き 合うかという問題で、青い芝の思想を否定する意図はないし、そもそも云々できるほどの知識もなければ立場にもないのは承知なのだけれど、

それでも、やっぱり否定したと受け止められると、時代背景というものがあったという、これは私自身も十分に承知しているつもりの1点と、もう1点「だから親を敵だと言った障害者らはその後の自立生活を通じて親との関係を切り結びなおしてきたんだ」という「反論」があったと

いう記憶があって、この2点目については、正直いうと「やっぱり身障者の自立生活運動の文脈に引き戻されてしまうんだなぁ」というところが悩ましかった。その辺りで文脈を引き戻さずに「その人」の文脈に沿ったまま考えるところが「支援」という雑誌に私が感じる魅力かな。

昨夜「支援2」のトークセッションを読み始めたら、面白くてやめられなくなって、仕方がないからお風呂に持って入った。ずっと疑問だったことのいくつかについて、本当のこと語ってくれてありがとう、てな。

このセッションに限らないのだけど、「介助者」「支援者」「介護者」という言葉が、それぞれの人の定義というのか文脈というか思い入れというのか、によっ て使い分けられているのも興味深い一方、それらと「ヘルパー」の使い分けが一番興味深い。「運動」か「仕事」かということとも関わって。