最近のツイートから「少数の個人の好みで富が再分配される慈善資本主義の世界」と「メディカル・コントロール」

1%に過剰に集中した富が、その1%個々人の好みや考え方に応じて恣意的にばらまかれるという形で分配されていく世界ができ上っている。公的機関は、そうしてばらまかれるカネに群がり、慈善資本主義の帝王たちの歓心を買い、彼らの望むマーケット創出に協力していく。

粥川さんがいう「バイオ化した社会」とは、詰まるところ「保健医療の問題が、”グローバル金融ネオリベひとでなし慈善資本主義”経済を背景に、むしろ政治経済の問題そのものになってしまった社会」のことなのでは? 

だけど、個々の問題について考えている人の多くは、それを今だに保健医療の枠組みの中だけで捉えて議論している、というところに、私はすごく悩ましいものを感じたりします。○○○○もその一つですが。

フランスとギリシャの選挙のニュースを聞きながら思うのだけど、各国経済の行き詰まりを招いているのはニュースで描かれているような特定政権の失策とかいう次元ではもうなくて、国家にはどうにもできないグローバル金融ひとでなし強欲ネオリベ経済の暴走で世界経済の仕組みが破たんしているためでは?

経済が活発に回っているのは「”科学とテクノで簡単解決”文化」とその利権構造周辺だけ。そうしてスーパー富裕層の思惑の範囲内でしかカネが回らなくなっているなら、それは各国規模や経済圏規模では、もはや政治は彼らの思惑に奉仕する以外の機能を持てないってことでは?


10年以上前に、ミュウの施設で医療の過剰な管理が子どもたちの生活を圧迫した不幸な時代があった。あの時に私が闘ったのは、「安全と健康」が錦の御旗に なる医療(というよりあの時は「看護」だったけど)の管理的な姿勢だった。別の言い方だと医学モデルになるのかもしれない。

科学や医学といった狭い専門領域特有の価値意識はより大きな社会の価値意識の一部に内包されるもののはずなのに、科学とテクノの発展がグローバル経済と直 接的に結びついて、科学とテクノの潜在的可能性に人々の過剰な期待があおられることから、その大小が逆転し、社会の方が科学とテクノの価値意識を

広く踏襲していこうとしている、みたいな気がする。これが粥川さんのいう「市民のバイオ化」「社会のバイオ化」でもあるんだろうし、それは社会に医学モデル的な管理・コントロールと操作主義が蔓延していく、ということかもしれないし。

医学を含めた科学とテクノロジーという狭い専門世界の特殊な価値意識が、より広い社会の文化としての価値意識との間で大小を逆転させて、社会からのシビリ アンコントロールを失い、むしろ社会へのメディカル・コントロールが敷かれつつあるのでは? というのが「アシュリー事件」の一つのテーマ。

妄想ならいいけど、そのうち一定の知的レベル以上の白人男性だけが選別・誕生し、道徳的地位のある存在として振る舞う世の中がやってきて、女性と管理・支 配されることに慣れた従順な民族がそれぞれの「特性に応じて」その社会に奉仕する奴隷として必要数のみ生産される世界になる…とか?

科学とテクノで可能になることが増えるにつれて、それ以前のお馴染みの差別がどんどん強化されていくというのも、ものすごい皮肉のような、実はそうでもないような。「バイト化する社会」の「痛点」……。