「『いのちの思想』を掘り起こす」の安藤泰至氏がコラム

「『いのちの思想』を掘り起こすー生命倫理の再生に向けて」の編著者
安藤泰至先生が、宗教情報センターHPにコラムを寄稿しておられます。



安藤氏が生命倫理学の議論を知って感じた疑問は3つ。

哲学・倫理学系の生命倫理学者には
「自分自身の人生を棚にあげたようなかたちで
論理的なパズルを解くかのように考察するやり方」。

知的な興奮はあっても、
人生の一回性を生きる人間の問題を考察するには「不遜とも言える印象」を抱いた、と。

(ちなみに私も、シンガーの「実践の倫理」を初めて読んだ2007年に、
こんなの論理のパズルだ」という印象を受けた。
P・Singerの「知的障害者」、中身は?(2007/9/3))

安藤氏の第2の疑問は、
医療系、実践系の生命倫理学者の「医療の現場にいる専門家、医療従事者が
もっとも生命倫理への発言権を持っている、というような考え方」。

さらに法学系の生命倫理学者は、
患者の権利や人権を盛んに言う反面、
「例えば生殖医療や臓器移植のように、
ある人の生命やいのちをまもろうとすることが
必然的に別の人の生命やいのちの犠牲を伴う場合があるように、
現代の生命倫理問題が、単に欲望の充足とか機会の均等といった観点だけでは扱えない
生と死の「神秘」のようなものに関わっているという事態が十分に捉えられていない」

その他、すごく共感したのは、

現代の生命倫理学というのは
このような根本的な問いを棚上げにしてしまっているというか、
その問いを十分に問わないままで単なる利害や権利の調整や
「倫理的な問題もきちんと検討しましたよ」というお墨付きを与えるための
ある種の手続きになってしまっているように思えた.

「~~については絶対に倫理的に認められないという根拠は存在しない」といった言い方は、
既存の社会に蔓延している浅薄な価値観や死生観を問い直すことなく、
国策や産業利益と深く結びついた新しい医療技術や生命科学を推進する方向
に後押しすることになります.

「いのちへの問い」を個人に預けたまま、
専門家主導の医療文化をますます強化するような方向に与している。

上記のような現代の生命倫理(学)の議論には、
広い意味での宗教的な観点というか、人間存在、あるいは
人間の生と死の現実そのものに含まれている宗教的な次元というものが
十分にふまえられていない

何らかの宗教的教義やその世界観に基づいて
生命倫理問題への一定の「答え」を出すことではなく、むしろ、
宗教そのものの根底にある「いのちへの問い」に立ち返って、
それを徹底的に「問う」こと

一般の生命倫理学においては深く問われぬままに棚上げされている
「いのちへの問い」をきちんと問い続けること


なお、spitzibaraが「介護保険情報」に書いた
「『いのちの思想』を掘り起こす」の書評は
こちら⇒http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64559514.html

生命倫理を問い直すのは学者だけじゃない、私たちみんなの仕事のはずだ、
というメッセージを込めた、つもり。