「『いのちの思想』を掘り起こす」の安藤泰至氏がコラム
安藤氏が生命倫理学の議論を知って感じた疑問は3つ。
知的な興奮はあっても、
人生の一回性を生きる人間の問題を考察するには「不遜とも言える印象」を抱いた、と。
人生の一回性を生きる人間の問題を考察するには「不遜とも言える印象」を抱いた、と。
さらに法学系の生命倫理学者は、
患者の権利や人権を盛んに言う反面、
「例えば生殖医療や臓器移植のように、
ある人の生命やいのちをまもろうとすることが
必然的に別の人の生命やいのちの犠牲を伴う場合があるように、
現代の生命倫理問題が、単に欲望の充足とか機会の均等といった観点だけでは扱えない
生と死の「神秘」のようなものに関わっているという事態が十分に捉えられていない」
患者の権利や人権を盛んに言う反面、
「例えば生殖医療や臓器移植のように、
ある人の生命やいのちをまもろうとすることが
必然的に別の人の生命やいのちの犠牲を伴う場合があるように、
現代の生命倫理問題が、単に欲望の充足とか機会の均等といった観点だけでは扱えない
生と死の「神秘」のようなものに関わっているという事態が十分に捉えられていない」
その他、すごく共感したのは、
現代の生命倫理学というのは
このような根本的な問いを棚上げにしてしまっているというか、
その問いを十分に問わないままで単なる利害や権利の調整や
「倫理的な問題もきちんと検討しましたよ」というお墨付きを与えるための
ある種の手続きになってしまっているように思えた.
このような根本的な問いを棚上げにしてしまっているというか、
その問いを十分に問わないままで単なる利害や権利の調整や
「倫理的な問題もきちんと検討しましたよ」というお墨付きを与えるための
ある種の手続きになってしまっているように思えた.
「~~については絶対に倫理的に認められないという根拠は存在しない」といった言い方は、
既存の社会に蔓延している浅薄な価値観や死生観を問い直すことなく、
国策や産業利益と深く結びついた新しい医療技術や生命科学を推進する方向
に後押しすることになります.
既存の社会に蔓延している浅薄な価値観や死生観を問い直すことなく、
国策や産業利益と深く結びついた新しい医療技術や生命科学を推進する方向
に後押しすることになります.
「いのちへの問い」を個人に預けたまま、
専門家主導の医療文化をますます強化するような方向に与している。
専門家主導の医療文化をますます強化するような方向に与している。
なお、spitzibaraが「介護保険情報」に書いた
「『いのちの思想』を掘り起こす」の書評は
こちら⇒http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64559514.html
「『いのちの思想』を掘り起こす」の書評は
こちら⇒http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64559514.html