「奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき」読書メモ

どういういきさつだったのか覚えていないけれど、
ずっと前にインターネットで原作の一部の、
脳解剖学者である著者が37歳の時に自宅で脳卒中を発症し、
自分でそれと分かりながら、思うようにならない身体と思考の中で
試行錯誤を重ね、苦労して、なんとか外部に助けを求めるまでの下りを
興味深く読んだことがあり、

書店で翻訳が文庫になっているのを見た時に
「お、あれだ!」と買ってきた。


興味深かったのは、なんといっても、
それまで左脳の力を駆使して医学会でエリートとして生きてきた著者が
脳卒中で左脳の能力を失った時に、それを喪失として嘆くのではなく、
むしろ右脳(感性)的な生き方に魅力を見いだしていること。

それを表現する著者の言葉のいくつかが、当ブログで
「科学とテクノの簡単解決文化」の価値意識に疑問を呈しつつ、
それに対置する価値意識について考えてきた際に用いてきた言葉とほとんど同じであること。

それを、科学とテクノの最先端にいた科学者が
脳卒中の体験を経て、考え書いているということが、とても興味深い。
例えば以下のような個所。

私は左脳の死、そして、かつてわたしだった女性の死をとても悲しみはしましたが、同時に、大きく救われた気がしていました。……(略)……
……何事も、そんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然の中をぶらついているように、左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身したのです。言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。過去や未来に想像を巡らすことはできません。なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。わたしが知覚できるものは、今、ここにあるもの。それは、とっても美しい。
(p.94-95)


左脳は「やる」の世界。右脳は「いる」の世界――。

……わたしが脳卒中によって得た「新たな発見」(insight)は、こう言えるでしょう。
「頭の中でほんの一歩踏み出せば、そこには心の平和がある。そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい。
(p.176)

わたしがすごく大切だと思ったのは、感情が身体にどのような影響を与えるか、ということ。喜びというものは、からだの中の感覚だったのです。平和も、からだの中の感覚でした。
(p.195:ゴチック部分、原文は傍点。以下同様)

……脳卒中の前は、自分なんて脳がつくり出した「結果」に過ぎず、どのように感じ、何を考えるかについては、ほとんど口出しできないんだと信じ込んでいました。出血が起きてからは、心の目が開かれ、両耳の間で起こることについて、実際にはいろいろと選べることがわかってきました。
(p.198)


それから、もう一つ興味深いと思ったのは、
著者が福岡伸一さんの「動的平衡」と同じことを言っていること。

「自分であること」は変化しました。周囲と自分を隔てる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。もちろん、わたしは流れている! わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間の中で振動する原子と分子でできているわけですから。言語中枢の中にある自我の中枢は、自己を個々の、そして固体のようなものとして定義したがりますが、自分が何兆個もの細胞や何十キロもの水でできていることは、からだが知っているのです。つまるところ、わたしたちの全ては、常に流動している存在なのです。
……(中略)……わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界の中の、流体でいっぱいになった嚢として存在しています。
(p.96-97)

……自分が流れていると感じるのが好きでした。魂が宇宙と一つであり、まわりの全てのものと一緒の流れの中にいることを感じることが好きでした。エネルギーの動きやボディ・ランゲージと同調できることに魅力を感じていました。しかし、その中でもとりわけ、わたしの存在の根底から溢れる、深い内なる安らぎを感じるのが好きだったのです。
(p.121)


こういう体験を経て、左脳の機能が回復してきた頃に著者が考えたことは

……左脳はクソ真面目なのです。歯ぎしりしながら、過去に学んだことに基づいて決断を下します。一線を越えることなく、あらゆる事を「正しい・間違っている」、あるいは「良い・悪い」で判断します。あ、それから、その判断はわたしの場合眉の形に現れるんですよ。
右脳はとにかく、現在の瞬間の豊かさしか気にしません。それは人生と、自分にかかわるすべての人たち、そしてあらゆることへの感謝の気持ちでいっぱい。右脳は満ち足りて情け深く、慈しみ深いうえ、いつまでも楽天的。右脳の人格にとっては、良い・悪い・正しい・間違いといった判断はありません。
これを右脳マインドと呼ぶことにしましょう。ですから右脳マインドでは、あらゆることが相対的な繋がりの中にあるのです。ありのままに物事を受け取り、今そこにあるものを事実として認めます。
(p.226)


そして、タイラーさんは、とても東洋的な宗教的境地に至る。

左脳マインドを失った経験から、深い内なる安らぎは、右脳にある神経学上の回路から生じるものだと心の底から信じるようになりました。この回路はいつでも機能しており、いつでも繋げることができます。
安らぎの感覚は、現在の瞬間に起こる何かです。それは過去を反映したものや、未来を投影するものではありません。内なる安らぎを体験するための第一歩は、まさに「いま、ここに」いる、という気になること。
(p.261)

左脳マインドはわたしを、いずれ死にいたる一人の脆弱な人間だと見ています。右脳マインドは、わたしの存在の神髄は、永遠だと実感しています。
(p.262-263)


翻訳がまた、とても良かった。