「ただ」という世界に、生かされて「在る」こと

3月30日のこちらのエントリーにいただいた、
コメントのいくつかの流れがあり、その最後にhiromitiさんの
「せずにいられない」という言葉があったことから、
紀野一義「私の歎異抄を思い出したので、
読んだ当時に手書きで書きうつした「読書ノート」から。


……何かをするのでも「ただ何々をする」。念仏を称えたら極楽へ行けるとか行けないとかいうことは問題にしておらぬ。念仏を称えたらどこへ行くやらわからぬ。わからなくてよい。要するに「ただ称える」のである。誰かのためにするとか、人類のためにする、とか、そういうめんどうくさいものではない。ただ親切にする。ただ愛する。風が吹くようにただただ行くのである。
もっとも、このただ称えるというのは、うしろにもう一つある。ただやりさえすればよいというのではない。やらずにおられぬということがかくれている。これが「ただ」の恐ろしさである。背後からその者におこなわしめるものがいる。促すものといってもよい。親切にせずにおられないから親切にする。愛さずにおれないから愛する。どういうことがあっても止まらぬ力。誰かが止めても止まらぬ力。どんなになってもせずにおれない力が、背後からいやおうなしに迫ってくる。その時に「ただ」という世界が始まる。
(p 52, 53).


……「自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば」というが、実は外から来る力によってひるがえさしめられるのである。自分で自力のこころをひるがえすことなどできはせぬ。ひるがえったとしても、適当なところで妥協して、ひるがえしたような気になるだけではないのか。
 追い詰められ、恥を曝し、もはや自分で自分をどうしていいかわからぬところまでいってはじめて、自力のこころはひるがえるのである。自力のこころがひるがえらぬうちは、お念仏は出ぬのである。
(p.79,80)

(私は「リハビリの夜」を読んだ時に、ここを思い出した)


……やはり長い間、侘びさせられるという世界があり、手を合わせられる宿業があり、命をあずけられる師があってはじめて感謝のお念仏が出るのである。
(p.86)



同じく、紀野一義「『般若心経』を読む」 講談社現代新書

 自由などというものは、不自由に血の涙を流した人間だけが本当にそのありがたさを知るのである。たとえ分かったとしても、自由も、不自由も問題にしない「自在」のあることを知るわけがない。
 自在ということを本当に知っているのは、菩薩だけだと思う。
(p.71,72)


 おてんとさんは天に輝き、地に輝く。おてんとさんのような人生を歩きたいと、私は思う。
 どんなことをしたって、なくなりもしない減りもしない、この大生命の世界を、おてんとさんのように生きていく、いや、生かされていくとしたら、受・想・行・識にとらわれることもなく、眼・耳・鼻・舌・身・意にとらわれることもない。そうなれば、色・声・香・味・触・法にとらわれることもなく、眼界から意識界にいたるまで、まるっきりとらわれるということがなくなる。
 あるのはただ、「在る、在る」であり、「はっきり、はっきり」である。何が、どう、ではなく、ただ在るのであり、ただはっきり、はっきりなのである。そこに人間の分別思量の入り込む余地がない。ただ在るものが在り、はっきりしているだけのことである。
(p.154,155)


……仏様にうながされ、そのうながしのままに行動して、それがちゃんと道にかなっているという生き方をしたいと思う。そういう生き方を、「行もなく、行の尽きるところもなし」というのである。
(p.184)


実際に、こんな生き方ができる人間はたぶんいないだろうとは思うけれど、

そういう生き方をしたいと、せめて願いつつ日々を生きていくことで、
あるいは、時にこうした清々しい言葉に触れることによって、
少しでも清潔な生き方ができるのではないか、と

そのことを、せめて願ってみる。

そして

「科学とテクノの簡単解決文化」と、
その根っこにある能力偏重・操作主義とが一番欠いていて、
一番、そこから学ぶべきものがあるのも、
こうした日本のおおどかな宗教や哲学なのでは……と考えてみる。