コミュニケーション、言葉、哲学……をめぐる、ちょっと散漫なツイート

今朝、accelerationさんが
「他人の話を聞かず、言い負かすことを目的とし、しばしば相手を罵倒する、
ときに媚びる、そういうコミュニケーション・スタイル」について
ツイートされたことから、触発されて放った連続ツイート。

途中、いろんな人のツイートを読んで刺激を受けたり、
また誰かとやりとりしつつなので、いくつかの方向に頭が飛んで
ちょっと散漫ですが、そこはツイッターなので悪しからず。


「言い負かす」ことに血道を上げる人が増えてきている。

アメリカで哲学講座の人気上昇中(2008/4/11)
「学問としての哲学でも、よくある哲学学ですらなく、理屈で闘って人を論破するテクを身につけようという発想で」

哲学流行りは単に「論理のゲーム」の流行だ、と私も。怖いのは、その流行りのゲームに乗っかっていると、いっぱし哲学的思考をやっているような優越感を得られ、実は大して深く考えてもいないのに分かったつもりで一定の方向に誘導されそうなことですね。

志が高い人はそれほどいないから、結局みんな「あー言えばこー言う」のレトリックばっかり身につけて、会話が最初からケンカ腰の勝ち負けをかけた闘いにしかならない。誠実な議論どころか対話にすらならない。一部の生命倫理学の議論って、そんな感じがします。

そう。言葉は万能ではない。”アシュリー療法”論争の初期に、シンガーのNYTの論考に反論して、「障害のある子ども達と、一定の時間、同じ部屋で過ごし てみてください。何もしなくていい、ただ共にいてみてください」と言った人がいた。論じるのではなく、身体で知るしかないことというのがある。

だから「説く」のではなく「描く」ことを、と思ってブログをやってきたのだけど、そちらのエントリーを読んでほしい人ほどブログ内の「情報」エントリーにしか興味がなく、他は素通りで去っていかれるような気がする。

「A事件・重症障害児を語る方に」という書庫を作りました(2010/10/4)

障害のある子どもの親として、専門職の人に異議申し立てをさせてもらうという経験を、因果な性分だから何度もしてきたけれど、その多くの場合に情けないの は「言葉しか届かない」ことだった。受け取ってほしいのは、その言葉を吐かざるを得ない心なんだけど、対立姿勢で構えている人には届かない。

それに、人の言葉を聞いたり読んだりすることのすごさは、その時のやり取りや体験そのものではなくて、自分の中に引っかからせておくと、そこから何かがぐるぐると動き始めて、新しい気付きや自分の中の思考の飛躍など、思いがけないものを生まれてくることの方にあると思う。

本当は、そんなふうにじっくりと自分の中にあるいくつもの問いを、その痛みとともに抱え続けること。よいことも悪いことも含め自分の体験を栄養分に転じて 育みながら、それらの問いと誠実に向き合い考え続けること。それが「哲学」なんじゃないかとシロウトのオバサン的には勝手に思っている。