「施設」と「敵対する存在としての親」を巡る惑乱ツイート 2

後段は昨日2月28日。

たまたま私がフォローしている方からリツイートされてきた、
知的障害者の地域生活の支援をしておられる方のツイートに
以下のような一節があり、これが頭に噛みついてしまった。

施設入所を希望している保護者から彼の地域生活を守りたい。
施設送りの為に働いてはいない。


思わず血がのぼった頭を冷やそうと思って、
いったんPCを離れて、お昼ごはんを食べてみたのだけど、
頭の中で反論の独り言がどうにも離れなくなった。

で、熱くなった頭のままで、つい連続ツイート。

「よりあい」の下村恵美子さんが、「あれは自分ではなかったか」という本に収録された講演で:通所で来ている昼間だけの、つきあいの時は、家族の余裕のなさを、なかなか理解できないこともあります。泊まりでそういう夜を自分が体験すると(略)「次々に大変なことが起きて、長いことようつきあいんしゃったですね」って、心から共感して、家族に言えるようになりました。

下村さんは、苦しい夜勤を耐えられるのは明けない夜はないと知っているからだと言い、早出の職員がやってきた気配に救われると書いている。家族の介護では救いになる早出の職員はやってこない。それは明けない夜を繰り返すということ。

人はみんなそれぞれに固有の環境と固有の人との繋がりの中で、固有の歴史としがらみといきさつと事情を背負い、その中の誰彼との相互の恨みつらみやゴタゴタに絡みつかれて暮らしている。その固有の現実からスタートせず、「これが正解」からスタートして「支援」になるわけがない。

「親から守る」と敵対するのではなく、そこまで追いつめられ限界を感じている親を理解し支えながら、本人と親とも一緒に解決を探るといった姿勢にはなれないものでしょうか。何年間また日々の何時間その人と関わってきたのかしらないけど、「自分だけが支えている」姿勢は「支援者」の傲慢では?

固有の事情が状況に目を向けて丁寧に考えるべきところで、「施設は絶対悪」「施設に入れようとする親は敵」から、まず姿勢を固めてかかるのも、私には一種の思考停止に思える。

……と、「施設」「親は敵」にまた過剰反応している私。


その後も頭の中の独り言は止まらず、
ものすごい量の思考の断片が豪雨の後の濁流みたいな勢いで流れ続けたのだけど、
コーフンしているものだから、あまり記憶に留まっていなくて、
そのうちのごく一部を、

・親もその人の地域生活を一緒に支えているのではないのでしょうか。
 親も支えているのに、その事実が全く念頭から消えているのは、
親はやって当たり前と思われているからなんでしょうか。

・私だったら、こんなふうに何かの時には「親から守る」と
敵対の目を向けられるような事業所には、とても子どもを通わせる気になれない。
苦しんでおられるところに、こういう冷たい視線を浴びせられる親御さんが気の毒でならない。

・障害者運動が、「親という存在」に対して警戒の念を持っているのは理解できる。
だけど、それは目の前の個々の親である一人ひとりの人間を敵視してかかることや
施設入所を希望するか自立生活を目指すかによって個々の親を仕分けてかかることと同じではないはず。

・親にとっては、目の前で起こっている事態というのは常に
子どもが生まれた時を起点に、その後の長い年月にあったあれやこれやの先に
さらに追加されてくっついて起こっていることなんだけれど、

専門家は、目の前で起こっている事態だけを単独で問題にする。
または、自分が親子と出会った時に親子がそこで初めて地球上に発生したかのように、
自分が関わるようになった時を起点にものを考える。

自分が出会うまでに親子がどういう道をたどってきたかまで
想像力を及ぼして考えてみてくれる専門家はとても少なかった。

そして、その想像力を及ぼしてくれる数少ない専門家からしか、下村さんのような
「よくここまで来られましたね。よく頑張ってこられましたね」という心からの共感は出てこない。

・想像力のないところに共感はない。
想像力のない人には人を助けることはできない。
共感がなければ信頼関係は作れない。

・親が施設入所を望むのが気に入らないなら、
あなたの事業所で支援してきた子どもの親が施設入所を希望しているのだから、
あなたがやってきたはずの支援がもしかしたら十分ではなかったのでは、と
これまでのやり方を振り返ってみようとするつもりはないの?

・それとも、もしかして、この人はとても若いの?
単に未熟な職員さんが気負いこんでいる、というだけ?

・医師は治療が思うように行かないと、どこかで「この患者は○○だから」と言い始める。
学校の先生は生徒がいつまでも自分の思うようにならないと、
いつか「この子の親が○○だから」と言い始める。
「支援者」を名乗る人たちも、結局は同じなんですか?
障害のある子どもの親は、そういう専門家の
結局は「自分のプライドのため」には、ほとほとウンザリなんですけど。

・「施設送りの為に働いていない」も、結局のところ
あなたにとって最も大切だと意識されているのは自分の仕事のスタンスであり、
自分のプライドなのでは? 

・自分たちが支援するのは本人であって、
親に支援は必要ないという意識をそこに感じるのですが、それは一体なぜ? 

・親の支援を考えると、そこに本人の利害との相克が生じるからですか?
家庭の成員のそれぞれの利害には当然のこととして相克がありますが、
障害者を支援する人は、本人以外の事情も権利も利益も丸無視して、
ただ本人の代弁者となるべきだからですか?

・親に代弁するなといいながら
なぜ支援者と名乗る人なら代弁できるのですか。

・もしも、自分たちのことを勝手に決めるな、と訴えてきた障害者運動が
地域生活だけが普遍的に正しくて「施設送り」は絶対悪だというなら、
それもまた、他人がそれぞれ自分の暮らし方について考えたり決めたりするべきところで
勝手に決めていることにはならないのですか?


以上は、まぁ、感情的な反発から頭に浮かんだ
ほとんど言いがかりレベルの断片たちですが、

そんなこんなを考えた先に出てきたのが、
今日、「くつした泥棒」のエントリー
yaguchiさんから頂いたコメントへのお返事に書いた、以下。

その前のコメントからのつながりで。

Y:「誰ひとりとして自ら望んでそこで暮らしているわけではない施設」なんですよね。幾度も児玉さんの『アシュリー事件』のレビューブログに書きたくてトライしていたのですが、下書き書いては消して書けなかった。自分がその施設に勤めていた人間として書けなかった。

S:yaguchiさん、読んだ瞬間、どばっと涙が……。yaguchiさんも赤剥けでヒリヒリする傷と正面から向かい、自分でそこに手を突っ込んで書きまわ すようなことをしておられる。私もそこのところの果てのない自問が苦しくてならない。「アシュリー事件」を書き、新たに障害学の周辺の方と出会いをいただ いたことから、問いが深まり、余計に苦しくなってもいます。

S:でも、私はその問いに苦しみながら、施設でのミュウの生活を守り少しでも良いものにするために、目の前の具体的な問題解決を目指して微力ながら闘ってもい る。ミュウの施設のスタッフだって、みんなその人なりに闘ったり努力してくださっていると思う。現にそこに生きて暮らしている人がいるのだから、施設をよ り良い場所にする努力も必要だし、その努力をしている人やその人たちの努力が否定されることもないはずだ、と思うのです。この頃。

S:だから、「施設なんて、どうせ何もかもダメだよね」とか「養護学校だから、どうせ分かっていないよね」と全否定してかかってもいいんだ、最初から叩く構え で捉えていいんだ、という論調には、その逆も含めて加担したくない。たぶん実際に自分に課すとしたら案外に難しいことなんだろうと思うけど、そんなことを 最近、強く感じてもいます。

Y:若いころにM新聞のある記者の方(おそらくいまは論説委員をなさっている)のあるML上での(私からしてみれば)一方的な施設批判、施設イコールすべて悪 の論調に、若気のいたりでDMを出し、すごいやりとりとなってしまったことがあります。それが退職したいまでもトラウマになっていて、施設イコール悪論者 とはやりとりできない状態で、私はその手の論戦にはもうついていけなくなってます。施設はある時点で完全に脱施設論に完敗しているわけで、必要悪として 残っているだけなのでしょう。とはいえグループホームの現状もspitzibaraさんが昨日アップされたところにあり、結局携わる人が問題なんだ。「精 神ある道徳」ということが求められることにおいては施設サービスも在宅サービスもある意味それは同じ、と思うところにいます。

S:私もその問題で昨日つい熱くなっていくつか思い切ったツイートをしてしまったので、取りまとめエントリーを立てようと思っています。ある時代に「親が一番 の敵だ」と鮮やかに声を上げた日本の障害者運動の先駆性は素晴らしいと思うけれど、そこから親との関係を前向きな方向に再構築していくのでも、様々な障害 像の人たちへと想像力を広げるのでもなく、今は一部の支援者までが仲間内で「施設は絶対的に悪だよね」「親は敵なんだよね」と立場が共有されている居心地 の良さに安住して、思考停止の正当化に使っているんじゃないか、という気がしてきました。


最後のところで書いたことについては
ずっと前に以下のエントリーでGKチラベルトさんとのやり取りの中で
そういうことがちょっと出てきた記憶があるので、その後、行ってみました。


たぶん、ここだと思う ↓ 

安易に正義の立場にいようとする、その後の障害学者も、障害者運動も、彼らを正義に奉り(彼ら自身は正義を否定したのに!)、その錦の御旗の下にいるだけで、彼らの地平には、全く達していないんです。
(「彼ら」とは当時の青い芝の会)


それにしても、もう一度GKチラベルトさんのコメントを全部読み返してみると、
この当時の私には、GKチラベルトさんが言っておられることがよく分からず、
分かったふりで応対しているだけ。

ここしばらくのツイッターでの煮詰まって焦げ付きそうな密度のグルグルを経て、
GKチラベルトさんが言っておられることの一部は、今度はすっすっと理解されてきた。
が、もちろん、まだ私には学びが足りない。たぶん親としての煩悶も思索も覚悟も足りない。

でも、深くものを考えることもせず「親から守る」などと安易に言える人にも、言いたいことがある。

あなたたちが苦しんできたからといって、あなたたちが闘ってきたからといって、
そのことが、あなたたちに人を断罪する資格を与えるわけじゃない。