「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」:シーザーのNO! はNYから聞こえてきた

オフィシャルサイトはこちら ↓
http://www.foxmovies.jp/saruwaku/

ちょっと前に新聞で沢木耕太郎氏のレビューを読み、
すばらしい作品なのに、サルの知能が伸びるきっかけになるのが認知症治療薬という
その一点だけが安っぽいという意味の個所を読んだ時に、

私は「私の中のあなた」レビュー以来、
沢木氏に偏見があるからかもしれないけど、

いや、それはたぶん違うだろう、
その一点こそが時代への警鐘のはずだ、という予感が強くしたので、
見に行ってきた。

大当たりだった。

「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」で何が起こっているかが
ほとんど報道されることのない日本では、沢木氏のように解釈する人が多いのかもしれないけど、

それこそ「私の中のあなた」の“救済者兄弟”が国によってはすでに合法的な現実だとは知らず、
単なるSF的創造だとか空想の世界の話として受け止めた人が多かったのと
同じことじゃないんだろうか。(この件については文末にリンク)

この映画で描かれているブロックバースターの開発を巡る
製薬・遺伝子操作関連企業の熾烈な競争と、その中で
研究テーマや対象が医学的な必要よりも投資家の興味によって
「ゼニがすべてを決め、ゼニですべてが動く」利権構造も、

大きな利権に繋がる薬や技術は
副作用や諸々のリスクなど安全性の確認が十分にされない内から
見切り発車で流されていく構図も、向精神薬やクローン牛やGM農業や
いま現実に「科学とテクノの簡単解決文化」で起こっているそのままだし、

そして、それらの熾烈な競争で
最も投資家の興味を呼んでいる“美味しいマーケット”の1つは
「頭がよくなる薬・技術」であり「認知症の治療法」だというのも現実だ。

トランスヒュー二ストらの「頭さえよくなれば障害が治り生産性が上がって
みんながハッピーになれる」ユートピア像に見られるように
(詳細は「トランスヒューマニズム」書庫に)

また「科学とテクノで簡単解決文化」の知能偏重を象徴するかのように、
(詳細は「科学とテクノのネオリベラリズム」書庫に)

「頭が良くなる薬」がそのまま「認知症の治療薬」になるはずだという
映画の中の直線思考まで、ちゃんとTHニスチックで「それらしい」。
(その2つは直線では繋がらないはずだと私は独断と偏見で思うけど。)

そして、THニストの夢といえば、もちろん「不老不死」。
それだって、ちゃんと盛り込まれていた。

「自然のあり方を壊してはいけないわ」
Some things are not meant to change.(世の中には、変えちゃいけないものがあるのよ)
などの登場人物の言葉とともにね。

(両者は別の場面での別のセリフなのですが、
なぜか前者は字幕が目に、後者は英語が耳に届いてしまったので)

だから、認知症の治療薬開発に成功したと思ったら、
想定外の展開に至って人類滅亡への道を開いてしまった……というのが
かつての猿の惑星シリーズで核戦争で人類が滅びたのかと思ったら、
案外に核戦争では滅びていないけど、今度は「科学とテクノの簡単解決文化」の愚かさで
人類は滅びるんだね……という、とてもリアリティのある警鐘――。


それにしても、主人公のチンパンジー、シーザーの目覚めを描くプロセスは見事だった。

見事すぎて、シーザーの vulnerability(日本語を思いつけなかった)が
重症障害のある娘の vulnerability に直結し、生々しく痛かった。

特に保護施設に置き去りにされるシーン、その直後に
保護してくれる存在を失ったシーザーが虐待を受ける場面は、
6歳の娘を施設に入れた私には苦し過ぎて、息が詰まりそうだった。

科学とテクノの簡単解決文化の後ろにあるのはつまるところ
グローバル強欲ひとでなしネオリベ金融慈善資本主義だから、この映画をみていると、
その「ひとでなし」の部分でモノとして利用され踏みつけられ切り捨てられていく
世界中のありとあらゆる生き物(もちろん人間を含む)が、シーザーに象徴されていく気がする。

初めてシーザーが人間の言葉で人間の暴力を拒絶す感動的なシーンで
彼の NO は、私には遠くニューヨークの公園に集結した人々から聞こえてきた。

障害のため、肌の色のため、性別のため、貧困のために、
力弱い子どもだからというだけで、途上国に生まれ住んでいるというだけで、
カネさえ儲かれば人の命などどうなったっていいという強欲の犠牲にされていく
世界中の弱い者たちの声の集まりとして、響いてきた。

そして、ついに団結し立ち上がった猿たちの逆襲は、なんて小気味よかったことか。

「いけ、どんどん行け、もうそんな愚かな人間たちは滅ぼしてしまえ!」と思わず心に叫びつつ、
血沸き肉躍り、実に胸がすく、ヤンヤな活劇だった。

たぶん、人間による人間への逆襲が、きっとどうしたって
これほど目覚ましい逆転を起こすとは誰にも思えず、

現実の世界では
シーザーのように仲間と闘っているつもりでいたのに
振り返ったら一人だった……みたいな体験や、

団結すれば強いのは分かっていても、
その団結するということそのものの難しさに絶望してしまうことの方が
誰にとっても多いのが、きっと現実の世の中というものであるだけに、

いつのまにか「人間なんか滅ぼしてしまえ!」と
心に叫びながら猿の側に立ってシーザーの活躍に喝采できる活劇は、ほんに陶然と心地よい。

娘の代弁者だと自任している、サルの側でものを言っているはずの私は、
実は娘にとっては人間の側に立っていたりもするように、

人は同時にサルでもあり人間でもあるからややこしい、現実世界の複雑なジレンマを、
つかのま忘れてコーフンできることからくるカタルシス――。