「囚人を臓器ドナーに」は実施面からも倫理面からもダメ、とCaplan論文

12日のエントリーでとりあげたインタビューで言及されていた、AJOBのCaplan論文を読んでみた。

The Use of Prisoners as Sources of Organs – An Ethically Dubious Practice
Arthur Caplan, University of Pennsylvania
The American Journal of Bioethics, 11 (10):1-5, 2-11

冒頭で、移植臓器を増やすために繰り出されている「斬新なアイデア」が紹介されている。

NY市を含むいくつかの市で導入されている「ドナー救急車」

特別仕様のこの「ドナー救急車」、通常の救急車の後をついて走る。
で、病院の外で死ぬような人が出た場合には、前を行く通常の救急車が死亡宣告するや
即座に後続の「ドナー救急車」チームが起動、家族を探し連絡して臓器提供の同意をとり、
遺体に生命維持装置を取り付ける。その措置を行ったうえで摘出が可能な機関に搬送する。

事前指示など予めドナーとなる意思表示が行われている患者の場合に行われるが
NYの臓器ドナーネットワークの計画では、今後は病院外で死亡する患者のすべてに
家族による代理決定で実施していきたいとしている。

NY市の「ドナー救急車」については、こちらのエントリーでも触れられていた ↓
UNOSが「心臓は動いていても“循環死後提供”で」「脊損やALSの人は特定ドナー候補に」(2011/9/26)

選択的手術(命にかかわらない緊急性の低いもの)を受ける人すべてに
腎臓提供をルーティーンの手続きとして勧める、という案が出ている市も複数ある。

「絶対必要なわけではない手術を受けるなら腎臓1個くらい出しなさい」とのメッセージや
事実上の「条件」になってしまう懸念はないんだろうか。

生命維持治療停止を巡る事前指示書の内容によって
臓器提供の可能性が影響されないようにしよう、との提案も

「これこれの状態になったら人工呼吸器は外してください」と指示している人でも
それによって臓器が劣化して提供できなくなるなら外さなくてよいことにしよう、と?

処刑後の死刑囚からの臓器提供

もともと、こういう声はあったが賛同の声を集め活発な議論を起こす口火を切ったのは今年3月のNYT記事 ↓
「執行後に全身の臓器すべて提供させて」とOR州の死刑囚(2011/3/6)

囚人からの生体臓器提供

今年1月にミシシッピー州知事が、人工透析が州財政の負担になるとの理由から
片方が腎臓を提供してもう一方が移植手術を受けることを条件に
終身刑で服役していた黒人の双子の姉妹を釈放する、という事件があった。
これについてはCNNの日本語記事がこちらに → http://www.cnn.co.jp/usa/30001456.html

また、2007年にはサウス・カロライナ州議会に、
腎臓または骨髄提供と引き換えに刑期短縮を認める法案が提出されたことがある。
Ralph Anderson議員提出の法案では、骨髄の場合は60日、腎臓の場合は180日を
「特に利点の大きな、または特に人道的な行い」を認めて短縮するもの。

で、この論文でCaplanは④と⑤を取り上げ、実施上からも道徳上からも認めるべきではないと説く。
まず、④の死刑になった囚人からの死体臓器提供についてCaplanが挙げている問題は、だいたい以下。

・死刑そのものに倫理論争がある。

・最も多い中国で年間5000人。イランでも年間400人。
 米国では倫理論争の影響を受けて減少傾向で2010年は46人と、
 死刑になる人の数が非常に少ない。倫理懸念から米国では減少傾向。

・もともと少ない死刑囚人口は、高齢、感染症を含む病気持ち、肥満である確率が一般よりも高い。

・感染病の確率が高い、非道な犯罪者だなどの理由でレシピエントの方が望まない可能性がある。

・DNA検査で死刑囚の冤罪を確認するThe Innocence Projectにより、
1989年以降、267人が無罪となっており、そのうち17人が死刑囚。
えん罪の可能性を含む死刑の倫理議論は今後も広がっていくと予想される。

・中国での宗教・思想犯を含む死刑囚からの臓器摘出疑惑に国際的な批判が出ているが、
米国でも死刑囚から採るとなると中国の慣行を批判しにくくなる。

・医療職が死刑に関与すること自体への抵抗感があり、
米国医学会、米国医師会、世界医師会も反対のスタンスをとっている。
さらに死刑での臓器摘出に進んで関与するとは思えない。

実施面での最大の問題として指摘されているのが
「死刑囚は生命維持装置をつけて死ぬわけではない」。

もしも死刑囚から臓器をとろうとするなら
囚人をDCDDドナーとして扱う必要が出てくるが、

(これまで当ブログでDCD(心臓死後臓器提供)と呼んできたものと
事実上同じプロトコル差すのではないかと思うのですが、ここでは
donation after cardiac determination of death(心臓死宣告後提供)が使われています。
上記UNOSの記事にあったように“循環死”の宣告が説かれ始めているためでは?)

病院でのDCDDなら心停止から5分以内に手術室に運ばれて摘出にかかるが
死刑では最終的な死亡宣告まで少なくとも10分から15分待つことになっている。
そこに摘出のための施設に移動させるなどの時間が加わる。そのプロセスに関わる医療職も必要。

そうした現実問題を考えると、死刑囚からの臓器提供を可能にするためには
処刑方法そのものを“Mayan プロトコル”変更する必要がある。

Mayanとは、いけにえとして拍動する心臓を取り出して捧げる宗教儀式のこと。

となれば、Caplanがここで“Mayanプロトコル”と称しているのは
生きたままの臓器摘出による処刑、すなわち Savulescu提唱の“臓器提供安楽死”と同じ方法での処刑。

しかし、こうした変更には法的な問題もある他、これまでの黄金律「死亡者提供ルール」に違反する。
そんなことをすれば生死の線引きを変えて死体臓器提供への国民の信頼を揺るがす。
また処刑前から臓器保存処置がとられる事態を招きかねない、とCaplanは問題を指摘。

一方、spitzibaraがこの点で気になることとして、
手段を問わず臓器不足解消を唱える一派はその死亡者提供ルールそのものの撤廃を求めている ↓
臓器移植で「死亡者提供ルール」廃止せよと(2008/3/11)
Robert Truog「心臓死後臓器提供DCDの倫理問題」講演ビデオ(2009)(2010/12/20)

次にCaplanが指摘しているのは
ドナーにすることによって償いとしての死刑の道徳的正当性が失われる、という点。

処刑される死刑囚が最後にドナーとなり有徳な人と称えられることは犠牲者家族にとってどうなのか。

医療目的に司法制度が利用されることの2重の危うさについて
ここでCaplanが書いていることが私にはことの本質を突いているように思えるのだけど、

…the aim of the penal system is not to serve medical needs but to achieve justice for those wronged and their families and friends, as well as to deter future crimes.(中略)
Giving the state a motivation to execute beyond retribution or deterrence may be seen as inconsistent with protecting prisoners’ rights.

権利という点では、先のNYTの記事を書いたLongoは臓器提供も囚人の権利だと主張しているが、
重罪を犯したものは釈放後にも一定の権利を制約されている、と反論。

次に、④の生体ドナーとしての囚人について。

囚人の総人口は多く、特に親族への提供の希望はあるが
まず実際の問題として囚人における感染病の有病率の高さ。

それから非常に複雑な道徳的な問題として
連邦法は臓器提供を何らかの価値と結び付けることを禁じており、
保釈や刑期短縮、特権の拡大などのインセンティブや報酬は
こうした「価値づけ」とみなすのがUNOS倫理委をはじめ国内外での判断。

また囚人は総じて強要や操作を受けやすく、囚人の同意を額面通りにとることは危険。
ミシシッピー州のケースのように医療コストを理由に囚人の臓器提供を認めるのも問題。

以上、死体臓器提供の場合と同じ理由によって、
囚人からの生体臓器提供も慎重な規制とケース・バイ・ケースのアセスが必要。

           ―――――
個人的には、
「ドナー救急車」チームが死亡宣告された“遺体”に「生命維持装置をつける」ことのおかしさ、
また、死刑執行で死亡確認には10から15分待つことになっている一方で、
DCDDでは5分以内でよいことになっているということのギャップの2つが、すごく気になる。
結局、Caplanによる死刑執行後の囚人からの臓器摘出の倫理性議論から
ここではDCDDプロトコルそのもの非倫理性があぶり出されている……のでは――?

もう1つ、上で引用したCaplanの「司法制度は医療目的ではない」ということが
臓器提供に限らず、科学とテクノの原理で席巻されていく最近の世の中の風潮を
象徴的に指摘する言葉のように私には思えた。

医療は、社会とか文化という、もっと広く大きいものの中にその一部として内包されて、
社会から文化や法を通じてシビリアン・コントロールを受けてきたはずなのに、
科学とテクノの発達と、それによって急速に肥大化する利権とによって、
医学を初めとする科学とテクノの価値意識やニーズと、グローバル経済ががっぷり噛み合って、
社会や文化の方が科学と経済の浅く狭い価値意識に染め変えられていくような、

もはや社会からのシビリアン・コントロールが効かず、
逆に社会に向けて医療によるメディカル・コントロールが急速に敷かれているような……。