Savulescuが今度は「“無益な治療”論なんてマヤカシやめて配給医療に」

「臓器提供安楽死」の提案(詳細は文末にリンク)など、
当ブログでも何度も取り上げてきたトンデモ生命倫理学者のJulian Savulescuが
9月26日、シドニー大学の新しいウェブ・サイトthe Clinical Ethics Resourceの立ち上げを祝して
講演するようです。

タイトルは  the Futility of Futility (無益性の無益)。

シドニー大学の当該ページはこちら ↓
Launch of the Clinical Ethics Resource featuring Professor Julian Savulescu
The University of Sydney

書かれている講演予告は、

In modern times death has, for most of us, become a managed process, where treatment is selectively withheld and withdrawn, commonly on grounds of futility. In this paper Professor Savulescu argues that the concept of medical futility is deeply flawed. He will argue that judgements of medical futility are really covert judgements of best interests, which are frequently mistaken, or judgements about distributive justice. Decisions about medical futility would be best reframed as explicit resource allocation and distributive justice issues.

現代の死は多くの人にとって操作されたプロセスとなっており、
通常は無益性を根拠に治療が選別的に差し控えられたり中止されたりしている。

この論文でSavulescu教授は、
医学的無益性という概念には重大な欠陥があると主張し、以下のように論じる。

医学的無益性の判断とは実際には最善の利益判断が名前を替えたもので
しかもその判断はしばしば誤っていたりもする。

また、実際にはそこで暗黙のうちに
医療資源の公平な配分に関する判断が行われていることもある。

医学的無益性を巡る意思決定は、
医療資源配給と、公平な分配の問題として
明確に再構成されるのが最も良いだろう。

(distributive justice の太字は spitzibaraによるものです。
「分配の正義」。ここでは「医療資源の公平な分配」と訳してみました。
もしも日本語の定訳があれば、どなたかご教示ください)


ちなみにSavulescuは今年2月にICUでの一方的な「無益な治療」停止を説いていました ↓
Savulescuらが、今度はICUにおける一方的な「無益な治療」停止の正当化(2011/2/9)


新しいサイトは、
サウス・ウェールズ州の保健局がスポンサーで
シドニー大学の the Center for Health Governance, Law & Ethics と
The Center for Values, Ethics & Law in Medicineによって立ち上げられたもので、

日々、難しい意思決定を迫られている臨床現場の医療職に向けて、
それら意思決定をサポートするための資源とガイドラインを提供するのが狙い、
というのですが、

その立ち上げを祝して連れてきたのがSavulescuで、
(Savulescuは現在Oxford大学のUehiro研究所所長ですが
もとはオーストラリア出身で、ピーター・シンガーの一番弟子だったとか)

しかも講演内容が
「今でも“無益な治療”論というのは実際には
“最善の利益”論だったり“医療資源分配(つまりコスト)”の問題だったりして
別モノを言い変えているだけで、結局“無益な治療”論なんてマヤカシだ」といいつつ、

「だから“無益な治療”論のマヤカシをやめて、
これは医療コストの問題なのだと堂々と明示して配給医療にしよう」……なのだから、

このサイトが一体どういう情報やガイドラインを流していくのか
容易に想像がつくというものです。

それにしても、
ここでSavulescuが用いている論理は、
「死亡者臓器提供ルール」を撤廃しようと説く
FostやTruogやVeatchらの論理と全く同じ。

脳死」者は実際は生きている。脳死概念は間違いである。
このように、今でも我々は生きている人間を死んだことにして臓器を摘出しているのだから
生きている間から臓器を摘出することも認めてよい。


脳死」概念が間違いで、
死んだことにされている脳死者は実は生きているなら、
そこにある倫理問題とは、まず何よりも、
生きている人間を死人とする方便によって臓器が摘出されていることそのものにあり、
脳死臓器移植の倫理性が議論されるべきだというのが順当な論理のはずなのに、

そこで現に今行われている明らかな医療倫理違反は不問にし、
さらに、その違反の上塗りをするような提言をする。

この人たちがやっていることとは結局、

ステップ1
現在の医療倫理では受け入れられない A を現場に導入するために、
とりあえず表向きを取り繕えそうな概念 B を創り出し、
B の名のもとに強引に現場に実は A の既成事実を積み重ねていく。

ステップ2
当然「実際に行われているのはAだ」という批判を中心に
AとBを巡って議論が百出するが、そこには
Aという概念を広く周知させていく効果もある。
どうも議論が低調だと見れば、刺激的な言辞をちょいと投入して扇動する。

ステップ3
Bという名目でAが行われる既成事実化が進んできたところで、
その概念はマヤカシだと自分たちで否定してかかり、
今だってBだという名目で実際にはAが行われているのだから
こんなマヤカシは止めて、最初からAを堂々とやろう、と説く。


そういえば、
Truogは、小児の心臓死後臓器提供(DCD)の正当化でも、
これと全く同じ論理展開を使っていたっけな。

DCDドナーは死んでなんかいない。
デンバー子ども病院なんか75秒しか待たずに採った。
我々は今でも生きている子どもから採っている。
もともとアフリカのバーナード医師の第1例なんか
開けてみたら拍動していたから、氷水をかけて心臓を止め、
それで死んだことにして狩り採ったんだ。
だからDCDドナーが生きているか死んでいるかなんて問題じゃない。
どうせ死ぬ命と、それで救われる命があるなら、
倫理的な答えは出ているじゃないか。
だから生きている人から臓器を採るのは良いことだ。


この人たちがせっせと説いて回っていることを聞くと、
どうしても考えてしまう。

だから生命倫理学というのは、つまりは、
非倫理的なことを倫理的だと言いくるめるロジックのことだよね……。




P・Singerの配給医療提言はこちら ↓
Peter Singer がQOL指標に配給医療を導入せよ、と(2009/7/18)