「私は余計なことをせず死なせてほしい(丁寧なケアはしてもらえないのだから)」

先日、60代の友人と食事をした時に、
「私は余計なことをせずにさっさと死なせてほしい。
できれば麻酔をかけて眠っているうちに殺してほしいくらいだ」と
彼女が言うのに、なんとも割り切れない気持ちになった。

その人の話は概ね、こんな感じだった。

数年前に親戚の誰か高齢の人が病気になった時に、
医師がさっさと胃ろうにしたのに驚いた。

「まだ口から食べられる機能は残っています」と
かつて看護師だった彼女は果敢にも医師に抗議したがはねつけられた。

その時に言われた言葉の一つが
「今はこうしないと病院経営が成り立たない時代なのだ」だった。

そういう劣悪なケアだから
その人は、胃ろうになった途端に、どんどん機能が低下して
すぐに何も分からない寝たきり状態になった。

その病院には、そんなふうに
もう何も分からないのに、ただ機械的に時間がきたら管をぶら下げられて
栄養を入れられて肉体として生かされているだけの高齢者が
ずらりと並んでいて、ぞうっとした。

私はあんな目に会いたくないから
あんなになるくらいなら、その前に死なせてほしい、と思った。

あんなになるくらいなら、
できたら麻酔をかけて眠っているうちに死なせてほしいくらいだ。


彼女が前半に言っていたことは
まだ口から食べさせれば十分に食べられる状態なのにもかかわらず
コスト削減の儲け主義でさっさと胃ろうにしてしまう医療の在り方への不満であり
だから「もっと丁寧なケアをするべきだ」という主張だったはずなのに、

それが、いつのまにか「余計なことはせずにさっさと死なせてほしい」へと
話が飛躍していることに、しゃべっている当人は全く気付いていない。

というか、
「もっと丁寧なケアをしてほしい、すべきだろう」と語っていた人の言うことが、やがて
「自分はあんな目に会いたくない」 → 「さっさと死なせてほしい」と飛躍する間には
「もし丁寧なケアをしてもらえないのであれば」という条件が存在していること、
その条件が即座に「どうせ丁寧にケアしてもらえないのだから」という前提と化し、
それによって「丁寧なケアはしてもらえない」ことが受け入れられてしまっていることに。

その自分の意識のワナに無自覚なまま、
「親戚がまだ食べられるのにさっさと胃ろうにされた。
私はあんな目に会いたくないから余計なことはせずに死なせてほしい」
という話がパワフルに繰り広げられていく。

いま、世の中にどんどん増えている
「余計なことはせずに、さっさと死なせてほしい」論というのは
なるほど、こういうふうにできているものなのだろうし、

それが繰り返されることによって
その隙間に暗黙のうちに潜んでいる「どうせ丁寧にケアしてもらえないのだから」という諦めが
広く世間の人々の間で共有されていっているんだな、と。

でも、それによって「ターミナル期の丁寧なケアは望むべくもない贅沢」というのが
世間に広く共有された認識として固まっていき、その勢いや速度が
事実に基づいた丁寧な議論の余地をなくしていったり、
個別のケースごとの細やかな判断を一律に否定していくとしたら、
それは、とても怖いことなんじゃないだろうか。

改めて
惣万佳代子さんのような「地域での丁寧なケアと看取り」の実践者が
その丁寧なケアを前提に言う「高齢者は口から食べられなくなったら死」
世間一般の人のいう「余計なことはせずに死なせてほしい」との間には
本質的な違いがあるのだということを、つくづく考えさせられた。


【追記】
上記の惣万さんのところにリンクしたエントリーを久々に読み返してみたら、
そのコメント欄にも、たいそう象徴的なやり取りがいくつもあって、
そういえば、この時も医療職の人の意識の壁に何度も悶絶しそうになったなぁ……と。

その「通じなさ」の悶絶の中で追加で書いたエントリーがこちら ↓
「食べられなくなったら死」が迫っていた覚悟(2009/11/5)





中日新聞の「胃ろう」に関する連載

1 認知症 早すぎる医師の判断
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20110105161319249
2 家族、現場の葛藤 必要な処置か延命か
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20110112142307757
3 広がる拒否感 「管」=「終末」との誤解
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20110119145604991