所長室の灰皿

ミュウがお世話になっている重症心身障害児施設(ここでは療育園)は
大きな県立の複合施設(ここではセンター)の一組織という位置づけ。

その療育園で、もう10年ほども前になるだろうか、私は
「師長&園長のタグ・チーム 」vs「保護者一人」というバトルを闘ったことがある。
もうほとんど思い出すこともなくなった、遠い昔のことだ。

昨日、古くからの友人(ここではAさん)と何年振りかで会ってランチをした際に、
当時のことについて、思いがけないエピソードを聞かせてもらった。

Aさんの御夫君は、当時センターの医療に外部から関わりのあった医師。
その関わりの関係で、センター所長と会った時のことだそうだ。
「いま療育園で、とても頑張っている保護者がいる」と所長が言ったのだという。
「ワシはこの人の言っていることは正しいと思う。だから、
ワシはその保護者の味方になろうと考えているんだ」と。

え? ……所長が、そんなことを……? 
胸を突かれ、ジンと目に涙がにじんだ。

確かに、10年前のバトルの時、
あの大きな県立施設全体の長であった所長が、私の最強の理解者だった――。


さんざん療育園内部ですったもんだした末に、所長が会いたいと言っていると聞いた時、
私は「ついに所長が出てきたか。厄介な親を丸めこみにかかるつもりだな」と思った。

その日、私の予想の通りに、所長は妙にソフトな低姿勢でやってきた。
でも、社会的バカである私は、どんな時でも「まっすぐ」しか知らない。
その日も、やっぱり、ひたすら「まっすぐ」にしゃべった。

すると途中で、それまでテキトーに聞き流していた所長の顔が少しずつ変わり、やがて黙り込んだ。
押し黙ったまま、最後まで話を聞くと、「あんたの言うとることは、
ただのモンクじゃないのぉ。もっと本質的な問題じゃ……」と唸った。

「ワシは今日あんたをなんとか丸めこもうと思うてきたんじゃが、わかりました。
センターとして対処します。ただ、その方法を考えなければならない。時間をください」

職員への事情聴取が始まった。私も事務局長に呼ばれ、育成課長とも総看護師長とも会って話をした。

まもなく所長から電話があり、「書きものにされると、ワシは立場上さらに事情聴取をせねばならない。
これから先は、手紙やファックスは止めてくれんか。
あんたが会いたいと言えば、ワシはあんたとはいくらでも会う」

情報が操作された現場では、看護課職員からミュウへの報復もあった。
「ミュウちゃんは我々育成課が絶対に守ります」と育成課長が約束してくれた。

ミュウを連れて園に帰ったら、看護職員が誰ひとり出て来てくれない日があった。
その日、ミュウの主治医は、我々親子がいつも帰園する時間に療育園の入り口で、
他に用がありげに装っていることがミエミエの不器用さで、待っていてくれた。
私たちは、先生のその姿によって、その日を耐える力を与えられた。

別の施設に異動になっていた昔馴染みの看護師さんが、
突然、家まで訪ねて来てくれた週末もあった。
「噂でいろいろ聞いて、お母さんが心配でたまらなかったから」といって。

本当にたくさんの、いろんなことがあった。
ミュウの主治医と育成課長に支えてもらいながら、総看護師長と情報交換をし、
事務局長とも会い時に激しく渡り合いもしたけれど、私から所長に連絡はとらなかった。

そんなある日、渡り廊下の外の喫煙所でタバコを吸っていたら偶然に所長が通りかかった。
ついぞ見たこともないような柔和な笑顔を振り向けると
「そこは寒かろうが。……ワシの部屋にも灰皿はあるぞ」。

それから、また、さらに沢山の、いろんなことがあり、
誰にとっても長かった時間の終わりに、私は所長から呼ばれた。

あの日以来、所長室で向かい合うと、この間の経緯を本当に率直に、
私がこの先、絶対に人に言えないようなことも含めて、所長はありのままに語ってくれた。

当時ヘビースモーカーだった私は、私の倍くらいヘビーだった所長と2人で、
大きな灰皿に吸い殻を盛り上げ、広い所長室の空気を灰色にした。

「今後に向けた具体的な改善策を、これとこれと考えている」と提示して、
「他に何か、あんたから提案したいことがあるか」と聞いてくれた。

年に一度の個別カンファに親を含めてほしいという点を含めて
たしか3つほど提案させてもらったように記憶している。
2つはすぐに了解してもらい「カンファだけは考える時間をくれ」と言われた。
翌週、電話がかかってきて、「今はまだ職員の意識がそこまでいっていない。
将来的な実現を念頭に努力はするが、今の段階では無理だと判断した。
その代わり、カンファの前に必ず保護者の意見を聞いて会議に反映させるよう
現場を指導した。現段階では、それで了解してほしい」

次の春、園では師長が変わった。
新体制スタート直前に、私は事務局長から呼ばれ、思いがけない依頼を受けた。
新年度の職員研修の一環として、親としての思いを
直接自分の言葉で語りかけてほしい、と機会を与えられたのだった。
「所長も承知しています。内容については、何を言ってもらっても、一切構いません」

(この時、話した内容を含め、このバトルの時のことはこちらに書いています。
宣伝めいて恐縮ですが、読んでいただけると嬉しいです)

――もう何年も何年も前の出来事だ。

所長も、事務局長も、総看護師長も、育成課長も、その後一人ずついなくなった。
ミュウの主治医は別施設の園長になっていった。
療育園の園長も副所長になり現場を去った。

園長が替わる時に会えなかったので、挨拶のメールを入れたら、
「あの時には地獄の苦しみを味わったけれど、
あの時に自分は一人の小児科医から園長になれたと思う。
だから、あなたのことは恩人だと思っている」と、返事をもらった――。


昨日、10年の年月の向こうから、ふいに聞こえてきた所長の言葉に、
そんな遠い記憶が一つずつ掘り起こされ、昨日から蘇り続けている。

園長が地獄の苦しみだったと言ったように、私の中にも大きなトラウマが残っている。
そのせいもあって、なるべく思い出さないようにしてきた辛い記憶のはずなのに、
こうして記憶をたどりなおしてみると、私はなんと稀有な体験に恵まれたことだろう。
なんと大きな人たちに巡り合えていたことだろう。
私はなんと幸福な人だったことだろう。

昨日話を聞かせてもらった時にもジンと涙ぐんでしまったけれども、
懐かしい人たちの記憶が一つよみがえるたびに今日は何度も涙をボロボロこぼしている。
所長に、もう何度、心の中で頭を下げたかわからない。
あの稀有な体験ができた幸福に、もう何度、感謝したかわからない。
そんな稀有な体験をもたらしてくれた人たちを一人一人思い出しながら
もう何度、心で語り掛けたかわからない。

あの時、一人の保護者の思いを受け止めてくれた懐の大きなセンターは、
もうなくなってしまいました。所長のような人は、もう、どこにもいません。
でも、人がいないというだけでは、たぶん、ないのだと思います。
ああいう懐の深さを許さない、厳しい時代になってしまったのだろうと思います。

あの時、私は最後には「辛かったけど、あれだけ頑張って訴えたら
受け止めてくれる人、分かってくれる人が出てきてくれた」と思わせてもらいました。
その一部始終を見ていたミュウの父親は、懲りない妻を案じて、
「お母さんは、あれだけ頑張らなければ分かってもらえなかった、というふうには捉えないよね。
少し、そういう方向にも考えた方がいいと思うけど」と言います。

でも、私はやっぱりどこかで
心から訴え続ければ分かってくれる人が出てきてくれると思っているみたいなのです。そして
理不尽なことは何一つ言っていないのに、また「厄介なモンスター」にされそうなのです。

信頼していない人はゼッタイに言わない。信頼しているから言えるのだと思うのに、
言った瞬間に信頼していないことにされてしまう。それが、とても悲しい。

でも、また一生懸命に訴えたら、やっと、少しだけ分かってもらうことが出来ました。
だから、私はたぶん、もう少し分かってもらおうと「まっすぐ」をするのだろうと思います。
でも、言われのない敵意や憎しみのターゲットにされることは、本当は、私にも、とても恐ろしい。

所長、私はいつまで、分かってくれる人に出会い続けることができるんでしょう?

この時代の空気を、所長も感じてくれていますか?
心ある人が、頑張ろうとしても頑張ることを封じられてしまうような。
心ある人が、頑張ることの虚しさに耐えきれずに、燃え尽きていくしかないような。

心あったはずの人が、いつのまにか口を閉じ、目をそむけ、
うつむいて、子どもたちを見ず、「業務」をこなしていくしかなくなるような。

心あったはずの人が、いつのまにか「できません」しか言えなくなり、言わなくなるような。
そんな自分を振り返る余裕すら奪われていくような――。

所長、保護者と対峙するのではなく横に並んで共に考えてください、という訴えを
受け止めてくれる人と、私はいつまで出会うことができるのでしょうか。

これから私たち親子が生きていく世界でも、
そんな人に出会うことができるでしょうか。

これから重い障害のある子どもたちが生きていかなければならない時代は、
そんな人を少しは残していてくれるでしょうか。

「厄介な保護者」のための灰皿が、まだその世界には残されているでしょうか。

私はもう何年も前にタバコと縁を切ってしまいましたが、
あの時の所長室は、今はどこに行けばありますか、所長?