成長抑制WGの論文を読む 4

著者らは冒頭部分でWGメンバー内の重症障害についての意見概要をまとめてみせる。

メンバーの重症障害についての共通認識は、

① 社会が重症児・者を価値の低い存在とみなしていること。
② 医療・社会サービスの改善に投資することは優先事項である。
発達障害のある人への社会の人々の姿勢を向上させることも同様に重要である。
④ 重症児の親は数々の難しい選択に直面しており、
そうした子ども特有の複雑で困難な決定を行う際には、
親は敬意を持って尊重されるべきであると考えている。

メンバー内の意見の相違点は

身体をありのままに受け入れる姿勢を重要視する立場と、
利益になるように身体を作り替えることの道徳的な重要性を強調する立場

これは事実と違うだろう……と、強く思う。

・まず、批判する側の中心的な論点である差別と権利の問題が不在。

・ ①が共通認識になれるわけがない。
批判者は、成長抑制は重症児には許されるとの考え方そのものが
重症児を価値の低い存在だとみなしていると批判しているのであり、
この認識そのものが擁護者の正当化論と両立しない。
②も③についても同じことが言える。

・批判する側は前者の①~③が成長抑制と両立しない、むしろ損なうと主張しているのに、
その繋がりをバラして①~③を共通認識と確認してしまうことによって
批判の論点が「了解済み」の問題として切り捨てられている。
その問題の重要性についてはみんな分かっているのだから、既に議論は終わり、と。

・差別と権利の問題が、単に身体に手を加えることについての「立場」の違いにすり替えられ、
それによって大して重要でない相違のようにごまかされている。

障害児の医療決定における親の選択権の範囲という医療倫理の問題が、
「親は大変なんだから、親の言うことは尊重してあげましょうね」と
親の支援という別問題にすり替えて語られている。

・総じて、共通点の方が多く、相違点は小さいかのように思わせている。
また、決定的に相いれない対立はそこにはないかのように書かれている。

そして、これらの作為は、もちろん、
次に控えている、より大きなマヤカシへの下地作りに過ぎない。

なにしろ、皆で集まって、よくよく相手の言うことを聞き話し合ってみたら、
これはそんなに大騒ぎして目くじら立てて対立するほどの問題ではなくて、所詮は
This is one of many parental decisions for which a decision in either direction may be ethically justified.

これは、どっちの決定が行われたとしても、そのいずれも倫理的に正当化することができる類いの、
親がよく行っている意思決定の1つ。
に過ぎませんからね。……と言ってのけるのだから。

この捉え方は、論文全体を通じて何度も繰り返されているが、全く事実と反している。

WPASが違法性を指摘したのは確かに子宮摘出を巡る手続きだったかもしれないが、
WPASは同時に成長抑制についても侵襲性と不可逆性をもって、
子宮摘出と同じく親の決定権の例外とすべきだと判断した。



法学者のQuelletteに至っては親の決定権の例外とするだけでなく
成長抑制も女性器切除に匹敵する過激な医療だとまで言っている。

裁判所の命令の必要以前に、
侵襲度が高く不可逆な医療介入については親の決定権の例外、という捉え方こそが共通認識ではないか。

なぜ、その決定が
親がどっちに決めたにせよ正当化できる程度のものだと言えるのか。

このWGの論文を読んで、
何よりも学者としての著者ら不実を感じて不愉快になるのは、この一文のように、
それ自体まず論証し正当化しなければ述べることができないはずの、
まさに批判に晒されている擁護論の論点そのものが
あたかもそれが所与の事実であるかのように、しれっとステートメントになり、
批判への反論、正当化の論拠として使われていること。

著者らは、批判されている立場を論拠にして論点そのものを無いものにしてしまうという
とんでもない不実のウルトラCをやってのけている。

しかも、この論文のほとんどすべての議論が、このパターンの繰り返し――。

著者らが論証も正当化もせずに論文中に投入しているステートメントは、

成長抑制の影響は小さく、障害児の親が通常行っている医療に関する決定と変わらないと
表現を多少変えながら繰り返している、少なくとも4か所。

それから、例えば、

The children for whom growth attenuation would be considered have persistent, profound developmental and intellectual impairment.

成長抑制の対象となるのは永続的な重症の発達および知的障害のある子どもたちとなろう。

….consideration of growth attenuation is limited to children with the most profound disabilities, who have an IQ of less than twenty to twenty-five.

成長抑制の対象者は、IQ20から25未満の、最も重症な障害のある子どもたちに限定されている。

Their needs may justify interventions that would not be appropriate for others. The benefit associated with growth attenuation may improve their quality of life and promote the family’s flourishing.

重症児のニーズは他の子どもたちに行われれば適切ではない介入を抵当化する可能性がある。成長抑制の利益は、QOLを改善し、家族の暮らしを助ける可能性がある。

Neurologic conditions that are unquestionably degenerative – such as Tay-Sachs, Trisomy 13, or Leigh’s Encephalopathy – are a different matter.

(重症児の認知能力アセスメントには慎重を期さなければならないが)進行性であることに疑いの余地のない神経障害、例えばテイ・サック病、トリソミー13、レイ脳症などでは、話は別だ。

The implications of growth attenuation are unique for children who are nonambulatory and have persistent, profound developmental disabilities. In this context, growth attenuation is one of several means to try to include such children in family life and improve their quality of life.

成長抑制の対象となるのは、歩くことができず、永続的な重症の発達障害のある子どもたちのみである。この意味で、成長抑制はこうした重症児を家族の生活に参加させ、QOLを向上させようとする、いくつかの手段の一つである。


こういう”基準”や”解釈”は、いったい、どこから出て来たのか――?

なぜ、この論文では、何の論拠もなく、こうした”基準”や”解釈”が、
あたかも既に広く確認された規定事項であるかのような顔つきで投入されているのか――?


つまるところ、この論文が繰り返しているのは
「重症児にしかやらないのだから、やってもかまわない」のみ。

そして、その「重症児だから、やってもいい」という正当化こそが差別だと批判されている。

もともと、この論争のどこにも「妥協」の余地など、ありえない。
「妥協」の必要があるのは、何が何でも早急に一般化してしまいたい人たちだけだ。