重症児の父親からの成長抑制批判と「親を指針とした医療職によるアセスメント」

多いときには1日に150回もけいれん発作を起こす重症児の息子Segevくんについて、
また重症児の意識や尊厳や、それから成長抑制療法について

イスラエル在住のカナダ人で指圧と生体人間工学の専門家Erikさんが
ブログで興味深いエントリーを書いている。

500.000 seizures have not killed my son
Eric
I am a broken man/You can’t break me, November 14, 2010


毎日けいれん発作を起こしては呼吸が止まったり、ぐったりして
これまでに、もうざっと50万回もの発作を繰り返しているSegev、
何度も手術台の上で死んだと思われた息子は、しかし、
それでも死なずに生き延びてきた。

A person like that is quite special and deserving of respect. Deserving of having someone nurture him and thus give him a dignified existence. For me nurturing is a complex issue that encompasses this idea of dignity while maximizing his ability to experience positive things in life. Maximizing may mean treatments and therapies but, having tried and seen Segev's potential does not lie with trying to make him stand or turn over since he cannot control his body, the maximizing lies with physical contact, the holding but also with using that moment to apply techniques of pressure to steady, change and encourage not only his bodily functioning but his knowledge that there is this love where one person takes care of another.

こういう人は特別な存在で、敬意に値する。
誰かにケアして(nurturing)もらい、尊厳のある生を生きさせてもらうに値する。

私にとって、ケアすることとは、
人生における良いものを経験できる能力を最大限に生かしながら
尊厳という考えも広くカバーする複雑な問題だ。

もちろん、その人の能力を最大限に生かすとは治療やセラピーのことでもあるけれど、
立たせたり寝返りさせたり身体を自分で動かせるようにするということだけが
Segevの潜在能力を捉えて伸ばそうとすることなのではなく、

身体に触れたり抱いて身体を支えてやったり着替えさせたりするケアの瞬間にも、
彼の身体機能を伸ばそうとすると同時に、彼の知識をも伸ばそうと働き掛けることなのだ。

人が人をケアするところには愛があることを、
Segevが知ることができるように――。

(Nurturingには適当な訳語が思いつかなかったので、
とりあえずケアとしておきました)


施設の職員さんが「忙しいから“関わりの時間”が持てない」というのを聞くたびに、
この人は、無言で着替えさせ、無言でトンラスファーをし、
無言で食事介助をするのだろうか……と、私は考えてしまう。

その人を人として尊重し、尊厳ある存在として遇しているならば
黙って着替えさせたり、オムツを交換したり、食事を食べせたりしておいて
「さぁ、関わりの時間だから、お話ししましょう」なんてことは、
ありえないはずなのに……と。


もっともErikも、
あまりにも依存度の高い人の場合には、ケアする側がだんだんと
その人自身よりも障害や病気の方に気を取られて、
まるでその人が障害そのものであるかのような意識になってしまう、と指摘する。

しかし、Segevの頭の中で何が進行しているのかについては
たぶん、こちらの目に見える以上のことが進行しているのだろうと
Erikは考えているし(私もそう思う)、

実際、これほど重度のSegevは、50万回もけいれんを起こしつつも、
今なお、新しいことを身につけ続けている。

舌を突きだすことが新たにできるようになったと思うや、
立て続けに突きだして見せることまでできるようになった。

思いがけない時に、おや、やっぱりこの子は分かっている、と
かすかな信号を出して、こちらを驚かせてくれる。
だから、たぶん、こちらの目に見える以上に、
この子は分かっているのだと思う。

そういう子どもの父親として、Erikは
全介助の重症児の身体が小さいことのメリットを考えないではないけれど、
しかし、成長抑制には大いに疑問があるという。

第一に、Ashleyに行われた乳房摘出。
あれが一体どうしたら正当化できるというのか。

健康上の必要のない、本来、治療ですらないものを
成長抑制と称して医師らは提唱している。

人類の歴史を振り返れば、
自分で選択できないAshleyに違法な手続きでの前例ができると、
ただ話題になり騒ぎになって、無意味な議論でガイドラインなどが作られ、
後先を考えずに、ひたすら、まろび進んでいくのだろう。
人類は、そうして進歩を生んできたというわけなのだから。

この後でErikが書いていることが私には非常に興味深かった。

It may seem tempting to view her parents as either brave or heroic for putting Ashley under this treatment since they apparently acted upon information that she would never develop mentally, never have any body control. This may accurately describe her condition even, I know that such a description fit my boy perfectly. But they were wrong about my son's chance of development because we are in need of better assessments. Assessments which can be written by medical professionals who are guided by the parent.

Ashleyは生涯に渡って、知的発達を見ることも身体的な自立を見ることもないと
言われたことに基づいてAshleyの親があのような医療介入を受けさせたことをもって
勇気ある親だとか英雄的な所業だと思いたい気分にもなるかもしれないし、
確かに、そういうふうに言われればAshleyはそういう子どもなのかもしれないし、
うちの息子にもぴたりと当てはまる。

しかし、ウチの息子の発達の可能性を考えれば、
そういう言い方はやはり間違っている。

本当は、もっとマシなアセスメントがあって然りなのだ

ただ医療職が書いたアセスメントだというのではなく、
親の言うことを指針にした医療職のアセスメントが

Erikは、この後、息子の頭の中で起こっていることについて
最後の最後まであきらめない、と書いて締めくくっている。



Assessments which can be written by medical professionals who are guided by the parent.

医師と障害児の親との、あるべきパートナーシップの1側面が
このフレーズよって提言されている……と、私は思う。

障害一般について知識があるからといって
医師が特定の障害児その子についてすべてを知っているわけではない。