朝日新聞の「どうせ治らないなら延命はしませんよね、あなた?」

昨日の朝日新聞に報告されていた朝日の死生観に関する世論調査の中で、
延命治療についての問いは以下のような文言になっている。

「あなた自身が重い病気にかかって、治る見込みがない場合、
病気の完治ではなく延命を目的とした治療(延命治療)を希望しますか。希望しませんか」

いつの間にか「延命治療」を巡る議論から
「終末期の」という形容も「死が差し迫っている場合には」という形容も
きれいさっぱり外れてしまったらしい。

「耐え難い苦痛」とも縁のない議論になってしまったらしい。

ここで問われているのは、
余命が限られているわけでも死が差し迫っているわけでもなく
耐え難い苦痛にさいなまれているわけでもないとしても、
「重い病気」で「治る見込み」がなく、どうせ「完治できない」なら
「延命を目的とした治療」を希望しますか。しませんか?

この問いを簡単に言い換えると
「どうせ治らない重病なら、完治に結び付くことのない治療、たとえば
痛みを取ったり、その他の症状を抑えて、少しでもQOLを上げるとか、
それなりのQOLで穏やかな時間が過ごせる延命すら諦めて、
さっさと死なせてもらいたいですか」

すなわち、「完治する見込みがないなら治療は全て無駄な延命ですよね?」という
暗黙の誘導が、ここには仕組まれているのでは?

でも、その誘導が具体的に意味することは、といえば、

例えば、がんが進行しても、
それなりに痛みが抑えられて、それなりの日常を送ることが出来ている患者さんが、
その状態でしばらくの間家族と共に過ごせる時間を伸ばすことは可能だとしても、
それは完治に結び付かない治療で、無意味な延命に過ぎないから、
そういうのは希望しませんよね、あなた?

……であったり、

例えば、脳卒中や事故や病気で寝たきりになったり意思や感情の表出が難しくなって、
周囲が感度を上げたり、方法を工夫さえすればコミュニケーションは可能だとしても、
そんな面倒なことは考えず、丁寧なアセスメントをする必要も感じない医師に
とっても安易に「最少意識状態」だとか「植物状態」だとか「脳死みたいなもの」と
決めつけられがちな状態になった時に、

丁寧なケアを受け、栄養と水分の供給によって、
または呼吸器装着またはその両者によって
かなり長期に渡って生きることは可能ですが、
でも、どうせ完治も改善も期待できないなら
その状態で生きることは「ただの延命」に過ぎないので
そんな延命は希望しませんよね、あなた?

……ですら、あり得るのでは?

それは、10月28日に以下のエントリーで書いたことに
そのままあてはまるような気がする。 ↓




医療についても医療倫理や終末期医療の議論にも
全くといっていいほど興味を持たずに暮らしている私の友人が
Kaylee事件のことを私から聞かされて、反射的に口から突いて出たのが
「でも、どうせ治らないんでしょ?」だったというのは、

私たちが日常生活の中で、この問いのように
「どうせ治らないなら、それは生きるに値しない命」
「どうせ治らないなら、臓器のために殺されても仕方のない命」という
暗黙のメッセージを流され、無意識のうちにそれを受け取り続けているからではないのか。

テレビや新聞や雑誌を通じて何気なく見聞きする文言の
ただの不注意な省略や、ただの不用意な曖昧さを装った、そうしたメッセージが
サブリミナルな効果を私たちに及ぼし続けているからではないのか。