「Kaylee事件」と「当事者性」それから「Peter Singer」

カナダのKaylee事件を知ってショックを受け
腹立たしくてならないわ、むやみに危機感は募るわで
フライパンで煎られるような気分だった去年の春の終わりのこと――。

友人と食事をした際に、
頭に噛み付いて離れなくなっていたKaylee事件のことを私は夢中で話した。

カナダでね、
重い障害があるというだけでターミナルでもなんでもない生後2ヶ月の赤ちゃんを、
心臓のドナーにしようって、親や医師が寄ってたかって相談して、決めたんだよ。

どうせ助からないなら人のためになる死に方をさせてやりたいって
メディアに語った父親は、世間からさんざっぱら英雄扱いされてさ。

ところが、よ。
ベッドサイドに身内が集まってお別れ会をやって、
もちろん、すぐに心臓を摘出する準備も万端整えられて、
いざ呼吸器を外したらね、Kayleeちゃんは自力で呼吸を続けたんだ。

もちろん、それで心臓は摘出されずに終わったんだけど、
でも、こんなの、言語道断だと思わない?

ターミナルでもなんでもないし、
写真を見るかぎり意識だってはっきりしてるよ、あの子は。

そういう子どもを、どうせ助かってもQOLが低いからといって、
移植用の心臓ほしさに殺そうって・・・・・・

カナダって、もうそこまで行っちゃってるんだよ。

――と、私が一気にまくし立てるのを、ふむ、ふむ、と聞いていた友人は、
「ったく、怖い話だよね」と私が話を締めくくると、
デザートのプリンをスプーンですくいながら、
とても無邪気に首をかしげて、言った。

「でも、その子、どうせ治らないんでしょ?」

絶句した。いきなり横っ面を張られたみたいだった。

彼女はミュウが生まれる前からの古い友人で、
私たち親子のことをいつも心配してくれている、心の優しい人だ。

その彼女にして、
生きていて、別に死にそうになっているわけでもない子どもを
ただ重い障害があるからというだけで臓器のために殺そうとすることに対して、
「でも、どうせ治らないんでしょ?」と反射的に口走ってしまう――。

あまりのショックに、私は自分の頭に反射的に浮かんだ言葉を口にすることが出来なかった。

どうせ治らないなら、殺してもいいの?
じゃぁ、ウチのミュウもどうせ治らないから、殺してもいいというの――?

もちろん、彼女は、別にそこまで考えて言ったわけじゃない。そのくらいは私にも分かる。
もともと彼女にはたいして興味のない問題を、私が勝手に持ち出し、
私が無理やり聞かせた話に過ぎない。ただ友人だからというだけで、
ずっとこういうことを考え続けてきた私と同じ問題意識で受け止め、
同じように憤ってくれると期待したこと自体が、そもそもの私の間違いだ。

当事者性というものが、もともとそういうものなのだろうけれど、
その時の私は、彼女と自分の間にある、絶望的なほどの「分からなさ」「通じなさ」に
ただ呆然としてしまった。

その場でいくら言葉を尽くして説明しようとしたところで、それはきっと、
同じものを我が身の中に「知らない」人との間では
決して越えることのできない種類の「分からなさ」……。
そんな徒労感があった。

そして、彼女と私の間にある、この絶望的に超えがたい「分からなさ」の溝は、たぶん、
世の中の、彼女以外の、重症児のことなど知らないし考えたこともない多くの人との間に
無数に、もっと救いのない深さで、存在する溝なのだ・・・・・・。
そのことを、痛切に思い知らされる気分だった。



その友人の家族が、最近、癌だと診断された。
彼女はたいへんなショックを受けているし、何かとしんどい生活を送っている。
私には愚痴を聞いてあげることくらいしかできないけど、
出来る限りの力になりたいと思っている。

そんな彼女の患者の家族としての生活を思う時、
ふと、聞いてみたい気がすることがある。

もう一度、カナダのKayleeちゃんのことを。
今でもまだ「でも、その子、どうせ治らないんでしょ」と言えるかどうかを。

治るかどうか分からない病人や家族の立場に自分が置かれた時に初めて、
Kaylee事件の恐ろしさが実感されるようになる――。
当事者性というのは結局そういうものなのかどうかを。

もちろん、実際にそんなことは口にしない。
だって、それがどんなに残酷なことか、そのくらいは私にだってわかる。
それくらいは誰にだってわかる。それが当たり前の分別というものだろう。

・・・・・・でも、それなら、
と、ここで私は、いつも同じ問いにつまずいてしまう。

闘病中のがん患者の家族に向かって
「どうせ治らないのなら」という言葉を投げつけることが
誰にだって分かる残酷なのだとしたら、

重症障害児の親に向かって同じ事を言う残酷には
なぜ人はこんなにも鈍感なのだろう?

例えばPeter Singerは、
自分の友人に重症障害のある子どもがあるとしても、
その友人に面と向かい、その子どもを指差して
「障害児は生きたって幸せにはなれないよ。
犬や猫やネズミにさえ知能の劣る、殺したっていい存在だ」と
平然と言える、とでもいうのか――。


【2011年4月15日追記】
09年にいくつかのエントリーで追いかけたカナダのKaylee事件を当時報道していた日本語ニュースを見つけた。「ケイリーちゃん、奇跡の生存」「ケイリーちゃんは奇跡的に自己呼吸を続けたため、移植は中止となった」とさ。:奇跡じゃねぇよ。医師らが障害児への偏見から判断を誤っていただけだよ。
http://www.bitslounge.com/a08_news/canada/c_090417_08.html